青根ヶ峰---心見茶屋跡---四寸岩山---二蔵宿---大天井ヶ岳---五番関---五番関登山口---母公堂---稲村ヶ岳登山口---洞川温泉
(大川口---天川辻---行者環岳---天川辻---一之垰---トンネル口奥駈出合---行者環トンネル西口)
   
2008年10月11日-13日
今回はいよいよ紀伊山脈の尾根沿いを歩く。2泊3日で午後出発。その日は吉野竹林院に宿泊。1日目は前回の青根ヶ峰から吉野大峯林道に並走しながら大天井ヶ岳を目指し、ついで五番関に降りる。山上ヶ岳周辺は女人禁制なので五番関の女人結界門の前から右折して洞川温泉に向うルートをとった。2日目は大川口から行者環岳をめざしたのち、行者環トンネル西口をゴールとした。今回からはかなり難所で、厳しい山道もあると聞いていたので夫と二人で出かけた。
爽やかな秋風の吹く10月、午前の仕事を終え12時47分宇治山田発、近鉄特急で大和八木、橿原神宮前経由で吉野駅到着は14時55分。駅まで今夜の宿泊地竹林院の送迎車が迎えに来てくれていて、宿泊地に15時前に到着(写真)。部屋は20畳、これにバス、トイレ、ミニキッチン、和式トイレ、小さな応接セットがついていて、二人だけではだだっ広すぎた。大浴場の後、群芳園という宿舎の庭園を一回りし、夕食。久しぶりにゆっくりテレビを見て、明日に備えて早く寝た。
6時15分起床、朝食後7時半には予約してあった近鉄タクシーで、一般道を青根ケ峰に行き、ここでタクシーを降りて歩き始めた(7:56)。すぐに古道に入り(7:59)(写真)、山道を歩き、又一般道に出た(8:13)。又古道に入り(8:18)、山道を歩き、一般道を横切り(8:32)、心見茶屋跡に8時45分に着いた。守屋茶屋跡を過ぎ(9:12)(写真)、四寸岩山に9時42分に到着。天気がよくて、山々がきれいに見えた。多分小天井岳、遠くに見えるのは扇形山だろうか。ここで小休憩をして、新茶屋跡(10:05)(写真)、足摺ノ宿跡(10:07)(写真)を通り、一度一般道を横切り、二蔵宿(百丁旧茶屋跡)に向った。足摺ノ宿跡付近は樹木の間にとんがった石がにょきにょきあり、ちょっと変わった風景。少し開けた場所に小屋があり、ここが二蔵宿(10:12)(写真)。簡易トイレもある。ここでも10分ぐらい休憩して、小屋の裏手から急坂を登って(11:11)(写真)、大天井ケ岳に向った。今までは順調に歩いてきたが、この坂はちょっときつかった。ただ道はしっかりついているので、不安なく進めた。展望のよい小さな平地に出たので(12:17)ここで昼食休憩をとった。ここが大天井茶屋跡だろう(写真)。すぐ目の前に大天井ケ岳が見える。ここから20分弱で、頂上に着いた(12:52)。ここからは今登ってきた吉野への道、洞川方面におりる道、五番関を経由する道の3本の道がある。五番関に向かい、下山(13:02)。苔むした山道を降りること約1時間、小さな平地に門がある五番関に着いた(写真)。門の上には「女人結界」の文字があり、このご時勢にいまだに宗教上の理由で女性の入山を禁止している。だから私はここから先には行けません。行きません。昔は高野山も女人禁制だったとのことだが、現在は女性も自由に行き来できる。日本で女人禁制はもうこの山上ケ岳だけなのでしょうか。門の左手から五番関登山口に向って(14:17)(写真)一路急坂を下っていった。登山口に14時41分に着き(写真)、ここで昼食の残りを食べて休憩。一般道を下り始めた(14:54)。毛又橋を通り、母公堂に15時47分に着いた(写真)。赤いお堂で、前には休憩所もあり、ここでコーヒーをご馳走になった。今晩の宿舎”あたらしや旅館”までタクシーで行こうと思い尋ねたら、迎えの車を呼んでくれるとのこと。ラッキー!すぐに宿から迎えの車が来てくれ、4時頃には洞川温泉あたらしやに着いた。風呂で今日の疲れをとり、鹿のさしみ、松茸等々地産の食材を使ったおいしい夕食で満腹。夜は近くの龍泉寺で火渡りがあるというので、見に行った。大きな松明を焚き、ここで、古くなった経典等を焼き、火を消したあとを裸足で渡るそうだ。行者さんがたくさん来ていて、その人達のあとで、一般の人も火渡りができると聞いたが、人が一杯だったし、寒くなってきたので途中で宿に帰ってきて、早々と寝た。
翌朝は6時半起床。タクシーで大川口まで行き、8時30分すぎ行者還非難小屋をめざして歩き始めた。これが難路で道に迷ったり、枯れ沢に落ちそうになったりで、4時間弱かかり、行者還岳に登るのはあきらめ、奥駆出合まで稜線沿いの道を歩きここから行者還トンネル西口まで下って、待っていたタクシーで近鉄下市口まで行った。宇治山田駅に着いたのは19時17分だった。
とにかく無事に帰れてよかった。でも私たちの足では今後の大峯奥駈道の計画は大幅な変更を考えなくてはならない。

 

案内板の説明
歴史的概要
大峯奥駈道は、日本独自の山岳宗教「修験道」の開祖・役行者が、白鳳時代(7世紀)に開いたと伝えられ、吉野と熊野という修験道の二大霊場を結ぶこの道は、修験者(山伏)にとって最も厳しい修行の道場とされる。すでに平安時代(794〜1192)には、熊野から吉野に至る大峯の峰通りに通じる奥駈道の随所に、霊地や行場あるいは宿が設けられており、120ヶ所の宿があったとされる。その後に42宿に整理されたが、近世にいたって峯中の霊地、行場が75ヶ所に整理され「大峯七十五靡」と呼ばれるようになった。靡とは役行者の法力に草木もなびくという意味があるとされ、修験道に関わる神仏の出現地、あるいは居所とされている。
熊野から吉野へと歩く行程を「順峯」、逆に吉野から熊野へと歩く行程を「逆峯」というが、現代では殆どの修験道が逆峯によって修行することが多い。また、近世以降に、吉野から山上ヶ岳(俗にいう大峰山)に参詣する「山上詣り」の風習が、一般庶民にまで広がるようになったことから、山上ヶ岳より更に奥に入って修行することを「奥通り」と言うようになり、近年では「奥駈」と呼んでいる。行程の順路や呼称が変わっても、大自然の中で心身の鍛錬を行う修験者が修行する祈りの道であることは、今も変わらない。
   
群芳園
竹林院の庭園は群芳園と称し、当麻寺中の坊、大和小泉の慈光院とともに、大和三庭園の一つに数えられています。室町時代の末頃竹林院代21代住職祐尊が大峯山にも竹林院を建て、又山上の様子を下院に移して庭園を築造しました。その後、豊太閤の吉野山観桜(1594)の際、千利休がそれまであったものに手を加え今見られるような桃山風の庭園に修築したものですが、一説には細川幽斎が改築したものと伝えられています。庭は池泉回遊式の形をとり、奥庭の蓬莱石組が中心になっているのは桃山時代の作風を示し、二重集団、二重護岸の石組などは室町時代の遺構をそのまま残しています。庭園内には五十種ほどの椿や桜、紅葉、馬酔木等が植えられており、吉野山の自然の景観も取り入れ、借景式の庭園としても四季折々見る人を楽しませてくれます。
   
大峯山寺
登山者へのお願い
山上ヶ岳(大峯山)は一千三百年の昔、開祖役行者神変大菩薩が開山された霊山で、修験道の根本道場として、日本国民に尊崇され今日もなお多くの方々の崇敬を集めつづけております。山上ヶ岳では、往古より仏教各宗の宗祖や高僧を始め、多くの先徳や在家の先達衆が命を賭して修行され、自利利他円満の菩薩行を心とされて、天下泰平、万民安泰、五穀豊熟を祈願されてこられました。今日もその心と修行の法は脈々と伝えられ、厳格な修行が行われております。また、当山はその永い歴史の中で幾多の流転を重ね、明治初期には国家権力による修験道廃止という法難にもみまわれましたが、御本尊の思し召しと、信徒の皆様の熱烈な信仰心や修験道の仏寺として今日に至っております。そしてその歴史の中で、当山は女人結界を持つ聖地としての姿を守り伝えております。この女人結界は決して、わたくし達修行者のみによって形作られたものではありません。この霊山を仰ぎ見ながら、ここに心のよりどころを見出した無数の先達たちが、壱千年あまりの時をかけて、宗教的伝統として作り上げてきたものであります。また、結界維持については、信徒や地元の人々と共に信仰を守り伝えてきた女性達によっても伝承されてきました。私どもは、今日においても、山上ヶ岳の女人結界を男女問わず修験道で修行し、信仰する者の信仰心としての戒律上の結界ととらえ、あくまでも信仰者の立場をもって議論を加えつつ、且つ結界を維持しております。登山の皆様には、この一千三百年の歴史を持つ当山の信仰に深いご理解をいただき、信仰者の声を尊重いただいて、女人結界の維持にご協力を賜りますようお願いいたします。当山は、今なお信仰が息づいている聖地山上ヶ岳(大峯山)が日本固有の宗教文化を伝承する地として、ユネスコの世界遺産に登録されたことを誇りに思うと共に、開祖神変大菩薩やこれまで修行を積まれた先徳に対し感謝の赤誠を捧げるものであります。
南無山上大権現  南無神変大菩薩

平成16年5月吉祥日

大峯山寺

 

宿泊

吉野 竹林院群芳園
〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山2142
TEL 0746-32-8081   FAX 0746-32-8088
  
洞川温泉 あたらしや旅館
〒638-0431奈良県吉野郡天川村洞川215
TEL0747-64-0045   FAX 0747-64-0080
  
交通
近鉄  宇治山田-吉野 乗車券 1780円 
特急券 1280円
下市口-宇治山田  乗車券 1670円 
特急券 1280円
  
近鉄タクシー  竹林院-青根ヶ峰
行者還トンネル西口-下市口