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南海電鉄 浅香山駅---(境王子跡---)方違神社---反正天皇陵---仁徳天皇陵---南宗寺---
石津神社---大鳥大社---等乃伎神社---聖神社---篠田王子跡---八坂神社---JR信太山駅
     
2007年12月24日  晴れ
   
クリスマスイブの日、紀伊路の前回の続きの南海電鉄浅香山駅から泉府中に向かって歩いた。朝、近鉄で難波まで行き、南海電鉄りんかん高野線で浅香山駅に降りたのは10時30分頃だった(写真)。早々から方角を間違えて南に向かうところを北に線路に沿って歩いてしまった。すぐ気がつき5分くらいのロスで済んだが、先が思いやられる。浅香山駅前の商店街を南下すると大阪刑務所の高い塀が左手見えてきた(10:47)(写真)。窓には鉄格子がはまっていて、一見してすぐ刑務所をわかる。これに気をとられていて、左折して境王子跡に立ち寄るのを忘れてしまった。住宅街を通り、田出井町を右折し、長尾街道の分岐点の道標を過ぎると(写真)、まもなく方違神社があった(10:56)。ここは摂津、河内、和泉国の境にあることから、中立で方位のない聖地と崇められて、方除祈願で有名らしい。この境内から反正天皇陵のこんもりした森が見えた。反正天皇は仁徳天皇の第三王子で履仲天皇の同母弟とのこと。熊野古道はこのあたりから天皇陵が続いている。陵の東側を通って住宅街を抜け右折すると、陵の正面に出た。中に鳥居があるのが見えたが、立ち入り禁止で、遠くから覗くだけだった。右折した道までもどって、さらにまっすぐ行き、広い通りで右折して南下した。向陵西町の交差点で右折すると仁徳天皇陵の北側に出た(11:31)。小学校のとき習った日本最大の前方後円噴をはじめて見た。想像よりもはるかに大きい。ここから反時計周りに古墳の周囲を歩いた。道の対側には住宅があり、町中のとてつもなく大きな公園といった感じだ。古墳の周りにはお堀があり、 その周辺は金網で囲まれていて、中には入れないが、周辺道路は市民のジョギングコースとしてはもってこいだろう。陵の西側の公園でゆっくり昼食をとってくつろいだ。突き当たりを左折して陵の正面に出た。やはり立ち入り禁止で外から見るだけだった。この向い側は大仙公園といって、堺市の博物館などがある。大仙公園の南側には履仲天皇陵があり、反正、仁徳、履仲天皇陵は百舌鳥耳原三陵と呼ばれている。周辺には他にいくつかの古墳がある。仁徳天皇陵の南側の御陵通りを西に進んで、南宗寺へと向かった。熊野街道には現在地と熊野方面の方向を記した木製の道標が所々にある。ただしこれらは熊野街道が話題になってから作られたものだ(写真)。
車の通る町中を随分歩いたが、南宗寺は中々見つからず、道行く人に訪ね歩いてやっとかつての堺の町を覆っていた環濠跡にたどり着いた(12:57)(写真)。このすぐそばに南宗寺があった(12:58)。南宗寺は弘治3年(1557)に三好長慶によって建立され、千利休ら堺の茶人が禅を学んだ寺で、ゆかりの茶屋もあった。又ここには徳川家康の墓もある。大きな寺で、境内には竜安寺の石庭に似た玉石を敷き詰めた庭があった。この庭は国の名勝指定の枯山水だそうだ。ここで庭を見つめながら一休み。すっかり時間を費やしてしまい、寺の近くの長屋の中を通り、環濠跡にかかる山の口橋を渡り(13:36)(写真)南に向かって歩いた。阪神高速15号堺線と交差しこの高速に沿って歩いていくと石津神社に着いた(14:06)。ここは日本最古のえびす社といわれている。境内には藁を編んだ大きな輪くぐりがあった。戎橋を渡り、民家と工場の間を歩いて南に進むと大鳥大社に着いた(14:46)。境内には日本武尊と神馬の銅像があった。本殿前は初詣の工事のため、近くまで行くことができなかった。大鳥神社を後にしたころからそろそろ足が痛くなってきたので、JR鳳駅の商店街でお茶タイムにした。さあもう一度元気をだして、少し日が傾きかけた冬の大阪を古事記の巨木伝説がある等乃伎神社へと向かった。商店街をぬけ、府道を右折するところに標識があったので助かった。時間が予定よりかかってしまったので早々と等乃伎神社を後にして住宅街を南に進んだ。道行く人に聖神社はどこですか?」と訪ねると「まだまだ先ですよ。夕暮れまでにつけるかな」といわれ、益々先を急いだ。聖神社一の鳥居に着いたのは16時33分だった。ここから住宅街の間を坂を登り、聖神社をめざした。急いでいると結構時間がかかるような気がする。日はだんだん暮れてくるし、標識は見えなくなるし・・・聖神社に着いたのは16時43分。そこそこにお参りして、また一の鳥居までもどり、その先の路地を左折すると、篠田王子跡の碑がある場所に行った(16:57)。この頃にはあたりは薄暗くよく見えなくなってきた。道をさらに南下して右手に八坂神社をみて(17:04)、薄暗闇の中を平松王子跡に行こうと思ったが、暗闇の中、何か事故にあってはと、今日はここまでと決心して、信太山駅に向かった。着いたときにはすっかり暗くなっていた(17:24)(写真)。この続きは又今度来年に歩こう。
JR信太山駅から天王寺に出て、ここから環状線で鶴橋まで行き、ここから近鉄で宇治山田駅まで帰った(21:14)。

 

案内板の説明
  
方違神社
祭神は、八十天萬魂神、神速進能男神、三筒男神、息長足日命で、崇神天皇のころ、国内に疫病流行して、同床共殿に祀られていた天照大神を笠縫邑、倭大国魂神と大物主神を祀ったとかかれている。この時、物部大母呂隅足尼(物部氏八世の孫)を遣わして、この地に素盞嗚尊を祀ったともあった。また神功皇后の帰還時、住吉の大神の御託宣によって神武天皇が丹生川上神をお祀りの故事にならって、此地において天神地祇を祭り、皇軍の方忌除を祈り、忍熊王等の賊兵を平げたと伝わる。
  
  
反正天皇陵
この天皇は、仁徳天皇の第三皇子で履中天皇の同母弟で、履中天皇が即位前に住吉仲皇子と皇位を争っていた際、兄のために住吉仲皇子を討った功績が認められ、履中天皇の実子をさしおいて皇太子となったという。即位後には歴史に業績をとどめることはないが、五穀豊穣で太平の世だったことが伝わっている。
   
   
仁徳天皇陵
仁徳天皇百舌鳥耳原中陵
わが国の前方後円墳として最も大きいのが仁徳天皇陵です。
陵丘の全長は480m、前方部の幅305m、後円部の直径245m、周濠を含めた東西の長さ656m、南北の長さ793m、周囲はは2718m、面積464124uとなっていて、その大きなことから大仙陵と呼ばれています。正式には、百舌鳥耳原中陵(もずみみはらなかのみささぎ)と言います。日本書紀によると、仁徳天皇67年の冬10月5日に、河内の石津原(堺市石津町〜中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を始めました。この時、鹿が野の中から走り出て、工事に従事している人々の中に走り入って、にわかに倒れました。人々があやしんで調べてみると、その耳の中から百舌鳥が飛び去り、鹿の耳の中が喰いさかれていましたので、ここを百舌鳥耳原と名づけたと記されています。仁徳天皇は、それから20年後の87年の春正月16日になくなり、同年の冬10月7日に百舌鳥野に葬られました。(古事記には毛受耳原陵と書かれています。)3段に築造した前方後円墳で両側に造り出しをもち、その墳丘をめぐって3重の周濠がつくられ、その外周に12の陪冡(ばいちょう)がつくられています。墳丘に、周濠となっている所から土を運んだと考えると、毎日1000人が働いて4年かかると計算されています。そのうえに、墳丘に並べる葺石の運搬、20000個以上の埴輪の勢作と運搬、中庭の築造、陪冡の造営などを加えると、莫大な労力がついやされたものと思われます。
徳川時代の中頃までは、陵墓の管理が充分に行なわれていませんでしたが、嘉永5年(1852)、ときの堺奉行川村修就はこれを憂いて、後円部上にあった勤番所を裏門に移し、天皇を葬ったと思われる後円部200坪に高さ3尺の石の柵を設けて、陵内を整備したと伝えられています。明治5年9月、前方部正面の第2段のやや上がくずれ、立派な石積の堅穴式の石室が発見されました。長持型石棺というすばらしい石棺と、石室面のあいだから金銅製の甲冑・刀剣の断片20・ガラスの椀などが見つけられましたが、本の通りにに埋めたといわれています。この石棺と甲冑を精密に写した図が残っていますので、相当具体的に知ることができます。
北側の反正陵古墳・南側の履中陵古墳とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれている。
   
   
南宗寺
龍興山南宗寺は弘治3年(1557)三好長慶が父元長の菩提を弔うために、普通国師(大林宗套)を招いて開山とした臨済宗大徳寺派の寺で、宿院の南方に寺地を構えていた。大阪夏の陣(1615)によって堺市街とともに全焼したが、当時の住職であった沢庵和尚によって元和3年(1617)に現在地に再建された。承応2年(1653)建立の仏殿・正保4年(1647)建立の山門(甘露門)・江戸時代初期建立の唐門は国の重要文化財に指定されている。仏殿本尊に釈迦牟尼仏、左右に文殊・普賢両菩薩をまつる。また境内には、茶道を大成し名人と呼ばれた武野紹鴎と千利休の供養塔や堺の豪商津田宗達・宗及父子の墓碑、堺伝授でよく知られている牡丹花肖柏の墓碑、さらに国の名勝である江戸時代の枯山水の庭園、第二次世界大戦で焼失したものの昭和35年7月(1960)に再建された利休好みの二畳台目の茶室「実相庵」、利休遺愛の向泉寺伝来袈裟形の手水鉢などがある。
   
南宗寺は、臨済宗大徳寺派の禅寺で、戦国時代、堺を支配した武将、三好長慶が父元長の霊を弔うために弘治3年(1557)に大林宗套を迎え、今日の宿院あたりに寺を開きました。その後大阪夏の陣(1615)にて他の寺院とともに焼失しましたが、当時の住職澤庵によって現在地に再建されました。境内には茶道を完成させた千利休や武野紹鴎の供養塔などがあります。また国名勝の枯山水の庭、八方睨みの龍の描かれた仏殿、山門・唐門は国の重要文化財に指定されています。
  
千利休と茶道
南宗寺には、利休一門とその師武野紹鴎の供養塔があります。利休の「茶禅一味」の精神基盤は大林宗套ら歴代の和尚のもとで禅の修業をし、確立されたと言われています。境内の奥には、利休好みの茶室「実相庵」があり、師紹鴎遺愛の「六地蔵石燈籠」、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟形の手水鉢」があります。
   
ゆかりの人々
 大林宗套 (1480〜1568)  大徳寺僧で、千利休をはじめ多くの帰依者を得て、南宗寺開山。堺と大徳寺を結び「茶禅一味」の礎を作った。
 三好長慶 (1523〜1564)  阿波国(現在の徳島県三好市)の出。拠点とした堺の経済力を背景に畿内を支配するが、めまぐるしく変わる戦国時代の後期には急速に衰退した。
 千利休   (1522〜1591)  堺の納屋衆に生まれ、織田信長、豊臣秀吉に茶頭として仕え、今日まで通じる「わび茶」を確立した。その後秀吉の怒りをかい切腹。
 澤庵宗彭 (1573〜1645)  臨済宗大徳寺派の禅僧。南宗寺の再建に尽力し、今日の姿の基礎を作った。晩年は三代将軍徳川家光の信奉を受け、江戸、品川東海寺の開山となる。
   
   
石津神社
祭神は、八重事代主命・大己貴命・天穂日命を祀り、末社に野見宿祢・相殿に石津主命・別に天満宮を祀ります。当社の起源は古く孝昭天皇7810日勅願により創建された日本最古の戎神とも言われています。垂仁天皇(BC29AD70)は当麻の蹶速と言う男、四方の国に力を誇るのを聞かれ、天穂日命十四世孫で出雲国の力持ち野見宿祢を召されて力競べをさせ、宿祢は見事に蹶速を負かし、恩賞として蹶速の領地を賜る。(これが相撲の始まりとも伝えられています)又、埴輪の制度を案出するなど智勇共に優れ当社の神主に任ぜられた。その後、孝徳天皇白雉3年(652)当社に行幸奉幣。孝謙天皇も天平勝宝元年(749)行幸され、神主に藤原の姓と、従三位大納言を賜り河内の国狭山・野田の二ケ村を神領に寄せ給う、更に後醍醐天皇行幸奉幣の時には神官に冠・沓を賜る。当時は社頭広く八町四方に及ぶと社記にあります。明治42年(1909)に字北町の村社六所神社を合祀しました。
    
     
大鳥神社
祭神は、日本武尊と大鳥連祖神の二柱であり、和泉国一の宮にあたる延喜式名神大社であり、同じく式内社の大鳥北浜神社・大鳥美波比神社・大鳥井瀬神社・大鳥浜神社と伴せて、大鳥五社明神と呼んでいる。当社の本殿は、わが国神社建築史上、大社造りにつぐ古い様式で、大鳥造と呼ばれている妻入り神社建築は、出雲の大社造・大鳥造・住吉造と発展して来たものであるが、当社本殿は明治38年に焼失し、同42年に古式どおり造営されたものである。神域は千種森といわれ、樹木が密生し、うっそうとしている。奉祀の時一夜にして種々の樹木がはえたという伝説をもっている。当社は文武の神として、古来より武家の信仰が厚く、平清盛・重盛父子も平治元年(1159)熊野参詣の途中当社に参拝し、清盛は「かいこぞよ、帰りはてなば飛びかけり、育み立てよ大鳥の神」と一首よんだ。富岡鉄斎(当社大宮司)の筆になる歌碑が現存している。
  
   
等乃伎神社
式内 等乃伎神社縁起
古事記下巻仁徳天皇(313399)の段に記載されている兔寸河(ときがわ)のほとりの巨木説話から、この地が、古く先史時代の樹霊信仰と、高安山から昇る夏至の朝日を祭る弥生時代の農耕民族の祭祀場、つまり太陽信仰の聖地であったとされています。
その後、奈良時代の天平勝宝四年(752)五月、古代祭祀を司る中臣氏の一族、殿来連(とのきのむらじ)竹田売が祖神天児屋根命をこの地に奉祀し、大政大臣藤原智麻呂、その子大納言恵美押勝(藤原仲麻呂)が相次いで、この里に来住したと伝えられています。
  
    
聖神社
聖神社
聖神社は白鳳三年(674年)、天武天皇の勅願によって信太首が創建したと伝えられ、以降延喜式内社、和泉国五社明神の三の宮に列し、「信太明神」の別称でも人々に親しまれている。祭神は素戔鳴尊の孫神「聖大神」を主祭神とし、天照大御神他四柱の神々を配祀している。かつての境内地は信太山丘陵の大半約百万坪を有していた。境内には国指定重要文化財である慶長九年(1604年)再建の聖神社本殿をはじめ、末社の三神社本殿、瀧神社本殿があり、末社平岡神社本殿は大阪府有形文化財に指定されている。
国指定重要文化財
・聖神社本殿(昭和25829日指定)
豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建し、屋根は桧皮葺、桁行三間、梁間三間三間社入母屋造という神社建築様式で、桃山文化の粋を集めた極彩色の装飾が施された壮麗な社殿である。
・末社三神社本殿(昭和50128日指定)

三間社春日造とよばれる全国的にも珍しい建築様式で、屋根は桧皮葺、正面三間、身舎側面二間の前面に一間通りの庇を設け、極彩色が施されている。元は東南部の神護寺「奥の院」に鎮座していたが、明治六年に現在地へ遷座した。

・末社瀧神社本殿(昭和52128日指定)

三神社の北側に隣接、鎮座する社殿で、屋根は桧皮葺、正面一間、身舎側面一間の一間社春日造である。

平成19331  和泉市教育委員会

   
   
篠田王子跡
篠田(信太)王子跡

平安時代の後半頃から流行した浄土信仰は、紀州・熊野こそ十方浄土の聖なる地・現世極楽の聖地であるという「熊野信仰」に発展し、現世極楽の地にあこがれ、一切の罪業消滅を願う皇族や貴族たちがこぞって熊野の地を目指すようになりました。延喜七年(907)宇多法皇の御幸にはじまった熊野詣は、貴族の次に武士層に、南北朝以降は畿内の庶民層へと広がっていき、「蟻の熊野詣」と称されるほどに大勢の参詣人が熊野をめざして続いたと伝えられています。この熊野への参詣の道が熊野街道です。京都から淀川を船で下り、大坂天満の渡辺の津に上陸し、そこから摂津国の天王寺、住吉を経て、和泉国を通過して紀伊国へと、陸路を南へ八十余里、往復およそ一ケ月のみちのりでした。和泉市内では、信太山丘陵の裾を現在のJR阪和線とほぼ平行して通っています。熊野街道筋の要所要所に、遙拝所、休息所として設けられたのが、熊野権現の末社である “王子社”で、数が多いことから、 “熊野九十九王子”とよばれています。和泉市内では、篠田(信太)、平松、井口(茶井)の三王子がありました。後鳥羽院の熊野詣に随行した藤原定家の記録によると、一行はここ篠田(信太)王子で禊ぎの後、信太明神に参拝しています。ここには、もとは熊野権現が祀られていましたが、明治四十二年(1909)に葛葉稲荷に合祀されました。王子町の地名は、ここに篠田王子があったことに由来するものです。なお、熊野街道は、説経節の一つとして名高い「小栗判官」で、熊野参詣のため土車に乗った小栗判官が照手姫に引かれてこの道を通ったことに因んで、「小栗街道」ともよばれています。

平成十六年十一月  和泉市教育委員会

   
篠田王子跡
 『熊野御幸記』のよると定家らは、
 「まづ松の下にて御禊あり 宗行御使となりシノタの明神に参ず」とある。
 
   
      
八坂神社
八坂神社
小栗地蔵を過ぎてすぐに八坂神社がある。
この地の氏神様で、境内の手水鉢には盆状の小さな水盤が刻まれている。
ここに清水を張って子安様を招き、安産を祈願する妊婦の信仰である。
   
   

  

   

参考資料
  
近畿日本鉄道 http://www.kintetsu.co.jp/
JR西日本   http://www.westjr.co.jp/
京阪電鉄 http://www.keihan.co.jp/
南海電鉄 http://www.nankai.co.jp/index.html
   
   
近鉄乗車券  宇治山田-難波 1750円
近鉄特急券 宇治山田-難波 1280円
南海高野乗車券 難波-浅香山
   
JR乗車券 信太山-鶴橋
近鉄乗車券 鶴橋-宇治山田 1750円
近鉄特急券 鶴橋-宇治山田 1280円