仁徳天皇陵 2007.12

  
正式には仁徳天皇百舌鳥耳原中陵といって、わが国最大の前方後円墳。
陵丘の全長は480m、前方部の幅305m、後円部の直径245m、周濠を含めた東西の長さ656m、南北の長さ793m、周囲はは2718m、面積464124uとなっていて、その大きなことから大仙陵と呼ばれている。正式には、百舌鳥耳原中陵(もずみみはらなかのみささぎ)と言う。日本書紀によると、仁徳天皇67年の冬10月5日に、河内の石津原(堺市石津町〜中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を始めた。この時、鹿が野の中から走り出て、工事に従事している人々の中に走り入って、にわかに倒れた。人々があやしんで調べてみると、その耳の中から百舌鳥が飛び去り、鹿の耳の中が喰いさかれていたので、ここを百舌鳥耳原と名づけたと記されている。仁徳天皇は、それから20年後の87年の春正月16日になくなり、同年の冬10月7日に百舌鳥野に葬られた。(古事記には毛受耳原陵と書かれている。)3段に築造した前方後円墳で両側に造り出しをもち、その墳丘をめぐって3重の周濠がつくられ、その外周に12の陪冡(ばいちょう)がつくられている。墳丘に、周濠となっている所から土を運んだと考えると、毎日1000人が働いて4年かかると計算されている。そのうえに、墳丘に並べる葺石の運搬、20000個以上の埴輪の勢作と運搬、中庭の築造、陪冡の造営などを加えると、莫大な労力がついやされたものと思われる。
徳川時代の中頃までは、陵墓の管理が充分に行なわれていなかったが、嘉永5年(1852)、ときの堺奉行川村修就はこれを憂いて、後円部上にあった勤番所を裏門に移し、天皇を葬ったと思われる後円部200坪に高さ3尺の石の柵を設けて、陵内を整備したと伝えられている。明治5年9月、前方部正面の第2段のやや上がくずれ、立派な石積の堅穴式の石室が発見された。長持型石棺というすばらしい石棺と、石室面のあいだから金銅製の甲冑・刀剣の断片20・ガラスの椀などが見つけられたが、本の通りにに埋めたといわれている。この石棺と甲冑を精密に写した図が残っているので、相当具体的に知ることができる。
北側の反正陵古墳・南側の履中陵古墳とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれている。

案内板説明より