篠田(信太)王子跡 2007.12

  
平安時代の後半頃から流行した浄土信仰は、紀州・熊野こそ十方浄土の聖なる地・現世極楽の聖地であるという「熊野信仰」に発展し、現世極楽の地にあこがれ、一切の罪業消滅を願う皇族や貴族たちがこぞって熊野の地を目指すようになりました。延喜七年(907)宇多法皇の御幸にはじまった熊野詣は、貴族の次に武士層に、南北朝以降は畿内の庶民層へと広がっていき、「蟻の熊野詣」と称されるほどに大勢の参詣人が熊野をめざして続いたと伝えられています。この熊野への参詣の道が熊野街道です。京都から淀川を船で下り、大坂天満の渡辺の津に上陸し、そこから摂津国の天王寺、住吉を経て、和泉国を通過して紀伊国へと、陸路を南へ八十余里、往復およそ一ケ月のみちのりでした。和泉市内では、信太山丘陵の裾を現在のJR阪和線とほぼ平行して通っています。熊野街道筋の要所要所に、遙拝所、休息所として設けられたのが、熊野権現の末社である “王子社”で、数が多いことから、 “熊野九十九王子”とよばれています。和泉市内では、篠田(信太)、平松、井口(茶井)の三王子がありました。後鳥羽院の熊野詣に随行した藤原定家の記録によると、一行はここ篠田(信太)王子で禊ぎの後、信太明神に参拝しています。ここには、もとは熊野権現が祀られていましたが、明治四十二年(1909)に葛葉稲荷に合祀されました。王子町の地名は、ここに篠田王子があったことに由来するものです。なお、熊野街道は、説経節の一つとして名高い「小栗判官」で、熊野参詣のため土車に乗った小栗判官が照手姫に引かれてこの道を通ったことに因んで、「小栗街道」ともよばれています。

平成十六年十一月  和泉市教育委員会

案内板説明より