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JR御坊駅---湯川子安神社---岩内王子跡---塩屋王子神社---上野王子跡---斑鳩王子社---
切目王子社---中山王子神社---岩代王子社---JR岩代駅
  
2008年4月5日 6日 晴れ
    
日高川を越えて古道は起伏の少ない海岸線をたどる。桜が満開の紀伊路をJR御坊からJR岩代駅まで岩内、塩屋、上野、斑鳩、切目、中山、岩代王子跡をめぐり歩いた。
前日、12時47分に近鉄宇治山田駅を出発。鶴橋14時37分着、大阪環状線に乗り換えて、JR天王寺15時20分のくろしおで16時40分に御坊に着いた(写真)。途中山中渓の桜がみごとに咲いていた。少しでも明日の距離を短くしようと、今日の宿は岩内王子跡近くのフォレストイン御坊にとった。御坊駅から線路に沿って東に進み、湯川中学校を右折して古道に入った。すぐに湯川子安神社があった(16:59)。夕方なのでひっそりとしていた。この地は中世亀山城主湯川氏居館で、湯川直春が息女の安産を祈願して祀ったとのこと。近くの桜に見とれてここで早くも道に迷い、御坊市内で道をあちこちで尋ね、ちょっと遠回りをして、やっと野口新橋に着いた(17:37)(写真)。ここで日高川を渡り、右折して堤防沿いに下流に歩き、御坊大橋を右手に見て少し行くと左手岩内青年会館横に岩内王子跡の石碑と案内板があった(18:05)。石碑には「焼芝王子神社旧跡」と刻んであった。川に水没した岩内王子をここに移した後の王子名のようだ。歩いて5分たらずのところに今夜の宿があった。周りは何もない田んぼの中に5階建てのホテルがあり、早々と夕食を済ませて、眠りに着いた。
翌日は昨日の続きで、ホテルを朝7時半には出発(写真)。いい天気で、絶好の古道歩きができそう。田んぼの中の道を進むと生コン工場に突き当たり、この前の琴野橋を渡って、広い通りを横切り、坂を登り、桜咲く極楽寺の前を通り(7:49)(写真)、いい気分で歩いていたが、次の目標である河南中学校が見えてこない。ここで引き返し、畑仕事をしている人に道を聞き、再び道標のある古道に戻ることができた。御坊の標識はこんな風で他の町と比べるとちょっとわかりにくかった(写真)。中学校前を過ぎて丘を登り、右折して新しい住宅街を通り、坂を下ると次の集落が見えたが、次の目標の円満寺がわからない。朝の散歩をしているおばあさんに訪ねて、細い路地を通り、やっと円満寺前に来た(8:29)(写真)。今日は朝からよく道に迷う。そのまま路地を進み、広い通りに出て左折。少し入ったところに塩屋王子神社の急な階段が見えた(8:34)。登っていくと境内には後鳥羽上皇行在所跡、塩屋王子跡の石碑が建っている。この神社は美しい天照大神の神像があることから別名美人王子とも言われている。すぐ横の公園ではさくら祭りの準備が行われていた。王子前の王子橋を渡り、南塩屋の集落を抜けて、左の坂を登った。祓井戸由来伝説の石板があり、その向こうから海が見えた(9:08)。この先古道は国道42号線と交差しながら、海岸沿いを南下していく。坂を下ると祓井戸観音寺があり(9:16)、この裏山には八十八仏あり、きれいに花が手向けられ、それぞれ管理している人の名であろうか、名札が立ててあった。坂を下り、国道に出たところには公園があり、ここにも同じ祓井戸由来伝説の案内板があった(9:27)。国道を右に入り、一里塚跡(9:35)(写真)、十三里塚(国道沿い)(9:42)、清姫草履塚(9:46)、和歌山高専(写真)、名田小学校(10:24)(写真)、仏井戸(国道沿い)(10:47)を見て、上野の御坊漁協名田支所横にある上野王子跡に着いた(10:57)。王子跡といっても小さな案内板があるだけでうっかりすると見過ごしてしまうようなものだった。このあと清姫腰掛石があったはずだが、見過ごしてしまい、宮古姫生誕之地の碑があるところで一旦国道に出た(写真)。一里塚からここまで、国道と平行して古道はあるので、国道沿いにある史跡には一度国道に出て、又古道にもどっても、それほど時間のロスはなかった。ただし仏井戸に行く道はわかりにくく、道をもどったので大分ロスがあったが。ここからしばらく国道42号線を歩いて標識に従い左に入った高台に津井王子社があった(11:54)。別名叶王子ともいうらしい。階段を登った鳥居の向こうに平地があり、奥に桜の木と王子跡の石碑、その周りには季節の可愛い花が植えられ、心和む空間だった。ちょうど昼食の時間なので、ベンチに座っておにぎりを食べた。誰もいない静かな空間で古の旅人たちもこんな風にここで休んだのかなと思いを馳せらながら、いい時間を過ごした。昼食が終わる頃近所のおじさんが来て、花の手入れをしてくれていたが、こんな方たちのお陰で、気持ちよく休憩できるのだなと感謝、感謝。再び国道に出て、印南の町で左に入り、印南橋を渡って斑鳩王子へと向かった。ここでも街中で迷ったが、斑鳩王子社は国道沿いにあると標識に書いてあった。もしわからなければ、国道に出てから行こうと思ったが、何とか次の王子にたどり着いた(13:03)。国道をさらに南下。道路標識に従って左に道をそれ、満開の桜並木の手前を右折すると切目王子社だ(13:28)。森の中に佇む静かな、王子社だった。木々に光がきらきら当たって美しい。この王子社は五体王子のひとつで、由緒ある王子だそうだ。そのまま切目の集落を直進し、JR切目駅横のガードをくぐり、右に光明寺を見て(13:54)、さらに集落を進んだ。急な登り坂を進むと中山王子神社に着いた(14:08)。社殿の隣には「足の宮」と呼ばれる子社があり、昔、足を痛めて死んだ山伏を葬った場所から湧いたという石が祀られている。ここから地道を行き、榎木峠と越え、麓の谷を歩いた。周りは梅林で、梅の季節だったらさぞかしいい香りといい眺めが堪能できただろうと思った。山間を抜けると一気に海が開け(14:40)、ここから右に海と国道を見ながら進んだ。途中で国道に出て国道沿いの史跡「有間皇子結びの松の記念碑」を通り(14:58)、西岩代橋を渡った先で、左へ国道を降りた。右に曲がってガードをくぐり、紀勢本線の岩代踏切を渡って、今回最後の王子めぐりの場所、岩代王子社に着いた(15:09)。この王子は小さいけれど、周りに白い小花が咲き乱れ、その向こうに白浜、そしてさらに雄大な海と素晴らしい景観の王子社だった。ゆっくりお参り、休憩して、15時42分岩代駅発普通列車で(15:17)御坊まで行き、ここで特急くろしおに乗り換えて天王寺経由で鶴橋18時36分発近鉄で帰ってきた。
今回の古道歩きは前日とあわせて26、7kmの長い距離だったが、絶好の日和、比較的平坦な道、そして満開の桜を眺めながらの気持ちいい歩きだった。道沿いだけでなく車窓からもあちこちに満開の桜が眺められて「やはり日本は桜の国」との思いを強くした。

 

 

案内板の説明
      
湯川子安神社
所在地  御坊市湯川町小松原
祭神   木花咲耶姫命
由緒   安産之神・子授之神・母性保護之神・育児之神
沿革
湯川氏が当地を支配していたとき阺の一隅に明神社を祀っていたが、天正年間(約400年前)に静岡県大宮に鎮座の元官幣大社浅間神社よりその御分霊を亀山城内の明神社と共に勧請し城主湯川直春公が御息女の安産を祈願されまして無事安産なされました。其の御、天正13年(1585)年兵火にかかり全焼し後、現在の此の地に再興し、子安神社を創建せられ多数の参拝者の方々が御加護を賜って居ります。明治になって再び火災で全焼し、明治15年(1883)再建し、昭和10年(1935)9月本殿を修復し、及び拝所を新築した。お参りの皆様方、子安大明神様に「お産が軽くあります様、また立派な赤ちゃんが授かりますよう」にと心をこめて御祈願下さい。
       
岩内王子跡
紀伊続風土記に也久志波王子社境内周三十間村中にあり岩内王子を祭る・・・とある。また御幸記には河流が変わり社地が没し、後に小社をここに建てる・・・と記されている。元和元年
・・・滅没したようであるが付近には○○地名が残り大正年間に近くに楠の大木が掘り出されており多分この辺りが旧地と見て間違いないと思われます。

   平成11年3月   御坊市教育委員会

  
美人王子の由来
塩屋王子神社の祭神は天照大神ほか十一柱であるが主神の天照大神の神像が美しいところから別名を美人王子と崇められてきました。古い記録の中に来ル菊月四日美人王子宮御祭礼之節・・・と記されまた和歌山県聖蹟には美景の地に鎮座することから美人王子と称えたのであろうと書かれている。今日では美しき子が授かると言われ若い夫婦や女性の参拝が盛んである。

平成11年4月1日   塩屋王子神社

  
塩屋王子神社の社叢
当神社の社叢は暖地性の常緑樹林で沿海暖地の天然林を代表するものである。特に、老樹・古木は、いずれも二百年以上の樹齢をもち、当神社と郷土の古い歴史を物語る貴重な証である。

昭和57年5月28日   御坊市教育委員会

   
祓井戸観音と八十八仏由来
当山は元、西向寺と言い、御本尊は千手観音をお祀りしています。裏山の八十八仏は、江戸時代末期頃、当時交通不便な当地の信仰心厚い人々が、四国の霊場八十八ヶ所へ、お詣りしたい一心で小さい漁船に乗って四国へ行き、各霊場の石を持ち帰って八十八仏をお祀りしたと言われ、お詣りすると霊験あらたかで、中風頭痛に効有りと、言い伝えられています。
   
祓井戸由来伝説
 祓井戸
祓井戸の浜辺に浅い井戸がある。昔、神功皇后が三韓遠征から帰りに紀州へ立ち寄ったが、その時、この井戸でお祓いしたので、お祓い井戸が祓井戸の名になったという。また、「祓井戸観音由来記」に「人皇第三九代の帝、天智天皇の御治世にに当たり、大峰の役行者この処に二七日の間加持され、楊杖の柄にて井の形を掘らせ給ふに不思議なるかな、その夜伊勢皇太神宮一万度の御祓、井元なる木の枝にかかりたり。よりて祓井戸村と号す云々」とある。祓戸とも書いた。
 祓井戸観音由来
祓井戸に、千手観音を安置している堂がある。西向寺と称し、野島の観音寺の説教所であったとも、また同寺住職の隠居所であったと言われている。ここに観音由来書一巻があった。(今は行方不明)下に井上豊太郎が書下し文に改めた「祓井戸観音来由」を記す。
伏して思んみるに諸仏菩薩の世に出で給うこと時機を待つばかり、この土に出現します然らば時機相和せざればもっとも感応現れ難し。謹んで故事を尋ぬるに、そもそも当地は天地開びゃくの暁を待って穢土に出現しまし有りたる十一面観音菩薩の霊場なり。末世の衆生二世盲闇の晴るるを請わん為、大慈大悲の御方の仰せの趣、観世音の尊像を三拝九拝して御経を読誦なされ満暁に至るや、何処にかよりともなく金色の熊一匹来りて尊前に頭黙して乗御発駕を相待つあり。これより権現、幾の難所をこの熊に乗りて熊野に至り給う。この熊忽ち三匹に変じ三の山に入るによりて三熊野と号す。人皇第三九代の帝天智天皇御治世に当たり、大峰役行者ここにて二七日間加持、楊杖の柄にて井の形を掘らせ給ふに不思議なるかな、その伊勢皇太神宮一万度の御祓、井元なる木の枝に掛りたり。よりて祓井戸と号す。人皇第五三代の帝淳和天皇の御代、天長五癸申秋、高野山の弘法大師、二七日間参籠あり。真言陀羅尼を讃誦なされし処一人の童子忽然として現れ、黙礼して飛び去るあり、信心肝に銘じ見る人掌を合わせ、聞く者驚かずということなし。か程に尊き霊場なり。大慈大悲の御恵は骨を砕きても有難く、生死二門の戸をさして安楽を開き、現世にては七難を脱れ、終息閉眼の夕には未来の蓮台疑いなるべし。尊むべし、慎むべし。欲・垢・煩悩の三の絆を離れ、流転輪廻の迷夢晴れ、御法の海を渡る者渡りの船を得し如く誓って涅槃に着岸し、安養世界に床座して仏菩薩と快楽を同じくせん。悟情の事、拳を以て大地を打つに等し。

仁寿二壬申二月中の八日

 十三塚
もと祓井戸の畑地にあったが、国道改修のため現位置に移した。由緒については移転当時の碑文に
此処 祓井戸地域に在って宝筺印塔を中心にし、左右五輪の墓塔を南北一直線に約一メートルの間隔をおいて十三基の小塚が立ち並ぶ、之を十三塚又は山臥塚とも称していた。いつの頃のことか定かでないが里伝によれば、昔、出羽国 羽黒山の山伏一行が熊野詣の折柄、阿波国の海賊の為に殺害せられたのを里人憐みのあまり懇に之を葬り供養の誠を致して今日に及んでいた。今歳 紀伊国道の改修に際し、本塚移動の止むなきに至り、慈に新に地を相して移葬し碑を建てその由来を記して其の霊を慰むること然り。

昭和三十有七歳次壬寅冬十一月

 清姫の草履塚
祓井戸にある。清姫が安珍を追うて来たとき、そこにあったまつの大木に登って安珍の方を見ると、もう日高川を渡っていた。そこで清姫は草履を脱ぎ捨てて(草履を松の枝に掛けたとも云う)はだしで安珍を追ったという。一説に安珍がこの松に袈裟を掛けて逃げたので袈裟掛の松ともいい、また、袈裟掛の松は別だともいう。今はない。
        
十三塚の碑
此処 祓井戸地域に在って宝筺印塔を中心にし、左右五輪の墓塔を南北一直線に約一メートルの間隔をおいて十三基の小塚が立ち並ぶ、之を十三塚又は山臥塚とも称していた。いつの頃のことか定かでないが里伝によれば、昔、出羽国 羽黒山の山伏一行が熊野詣の折柄、阿波国の海賊の為に殺害せられたのを里人憐みのあまり懇に之を葬り供養の誠を致して今日に及んでいた。今歳 紀勢国道の改修に際し、本塚移動の止むなきに至り、慈に新に地を相して移葬し碑を建てその由来を記して其の霊を慰むること然り。

昭和三十有七歳次壬寅冬十一月   芝口常楠撰文 祓井戸地区建立

   
清姫の草履塚
祓井戸にある。清姫が安珍を追うて来たとき、そこにあったまつの大木に登って安珍の方を見ると、もう日高川を渡っていた。そこで清姫は草履を脱ぎ捨てて(草履を松の枝に掛けたとも云う)はだしで安珍を追ったという。一説に安珍がこの松に袈裟を掛けて逃げたので袈裟掛の松ともいい、また、袈裟掛の松は別だともいう。今はない。
仏井戸
上野王子の旧地にある底の井壁に室町時代末期の阿弥陀如来(中央)勢至菩薩(左脇)観世音菩薩(右脇)の一石三尊が彫られている。「紀伊続風土記」に「王子の本地仏」とある。全国的に類例の少ない仏井戸である。

昭和44年7月18日  御坊市教育委員会

上野王子跡
熊野九十九王子の一つで建仁元年(1201)後鳥羽上皇「御幸記」に「次にうへ野王子野径也」とみえる。旧地は仏井戸であるが火難にあい江戸時代に現在地に移された。

昭和44年5月8日  御坊市教育委員会

  
叶王子跡
建仁元年(1201)、後鳥羽上皇に随行して熊野参詣をした藤原定家は、10月11日に、塩屋・「うへ野」(御坊市)、「ツイ」・「イカルカ」(印南町)の各王子に参拝し、切目王子社で宿泊しています。それから11年後、修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資は、承元4年(1210)4月26日に、塩屋・上野(御坊市)・楠井・鵤・切目(印南町)の各王子に参拝し、切目で宿泊しています。上野王子と鵤王子の間に、津井あるいは楠井と呼ばれる王子があったのですが、早くに退転してしまったようです。江戸時代には、この付近に叶王子社があったことは、『熊野道中記』などで知られています。『紀伊続風土記』では、叶王子社は津井王子社が移転したものと説明しており、これが有力な説です。この王子社は明治時代に叶王子神社となりましたが、山口の八幡神社に合祀されました。合祀後も地元では、願いが叶うの意から、「おかのさん」と呼ばれています。
   
叶王子の由来
「紀伊続風土記」では、叶王子社は津井王子社(位置は印南町大字津井)が移転したものと説明しており、これが有力な説とされている。現在移転の時期は明確でないが、弘治3年(約450年前)の祭文に当社「叶王子大悲権現」云々とあり、徳川時代以前、室町時代に現在地において「叶(かのう)王子」と呼ばれていたことが推測される。(江戸時代には、この付近に叶王子神社があったことは「熊野道中記」などで知られています)明治41年山口八幡神社に合祀され、石碑のみとなってしまったが、今も地域の信仰を集め、出産・結婚・合格・就職・厄除け・安全・平癒・豊漁・豊作等々、祈願・報告・お礼の参拝対象であり、地元では願い、望み、夢が叶うの意から「おかのさん」として呼ばれ深く信仰されています。
平成16年9月吉日。絵馬掛けを建立。絵馬掛け格子は八幡宮より寄贈され、叶王子祭りにお祓いがされる。「夢」「望み」「願い」が一つ叶うことから多くの絵馬が掛けられている。

斑鳩王子

天仁2年(1109)10月20日、熊野参詣途中の藤原宗忠は、「伊南」の里を過ぎて、「鵤王子社」に奉幣したと、日記に書いています。その後、鎌倉時代に熊野に参詣した藤原定家や藤原頼資も、それぞれの日記に、この王子に参拝したと記しています。江戸時代には富王子といわれ、『紀伊続風土記』では、印南荘光川村の項に載せられています。「いかるが」が「光川」に当て字され、村名になったようです。富王子社の名称は、近くを流れる富川に由来するらしく、昭和17年の刊行された『和歌山県聖蹟』では、鵤王子社が江戸時代に、この地に移転されたと述べて、旧社地を字森平にあった「大将軍神社」の跡地に比定しています。富王子社は明治時代に富王子神社になりましたが、大将軍神社と共に、印南の八幡神社に合祀されました。現在の斑鳩王子社は、昭和25年に八幡神社から分祀して建立されたものです。

  

斑鳩王子跡

斑鳩王子社は、富王子と称せされ、熊野九十九王子中でも古く、中右記天仁2年(1109)10月20日の条に「・・・次過、伊南里、次鵤王子奉幣云々」、御幸記建仁2年(1201)10月11日の条に「次ツイノ王子、・・・次イカルガ王子」と記されている。この他、元禄14年(1701)歩行記に「富の王子光河の側に御座・・・」、熊野紀行に「のこぎり坂上下二丁、此坂こえて同所人家あり、出口に富の王子社」、また、紀伊続風土記文化13年(1806)に「往還あり、御幸記にいかるが王子とあるは是なり」とあることから光川地内に斑鳩王子があったと推定される。明治41年(1908)の神社合祀令により印南八幡社に合祀されたが、昭和25年にこの地に遷祀された。

   故郷を思ひかさぬれ熊野路の
   名にしいなみの浦のはまゆふ
昭和61年2月25日   印南町教育委員会

   

熊野路
平安時代に配列されたといわれる九十九王子社は、熊野権現の分身とされ、熊野古道に沿って建立されました。なかでも藤白・切目・稲葉根・滝尻・近露の五社は「五躰王子」と呼ばれ、格の高い社だとされていました。印南町には、この五体王子のひとつである切目王子と他にも中山王子、叶王子(津井王子)、斑鳩王子の四社がありました。切目王子には宇多天皇を始め花山院、白河上皇、後鳥羽上皇など歴代皇族が参詣し、「蟻の熊野詣」といわれ、特に熊野信仰のあつかった後鳥羽上皇は正治2年(1200年)切目王子で歌会を催し、「切目懐紙」が西本願寺に所蔵されています。
切目王子跡

和歌山県指定文化財 昭和34年1月8日指定

熊野九十九王子の一つで、五体王子の一つでもあり、五壁の祭神が祀られている。「中右記」「御幸記」等には詳細に記録され、熊野信仰を知るうえに貴重な史跡である。
天然記念物ホルトの木

天然記念物 昭和34年1月8日指定

この木は暖地性常緑喬木で、本州では紀州以外に稀に見る珍木とされている。幹周約4メートル、根廻り6メートル、樹齢約三百年と推定され、深専寺(有田郡湯浅町)のホルトノキに次ぐ第二位であり、学術上貴重な天然記念物である。

昭和46年3月31日   和歌山県教育委員会  印南町教育委員会

   
切目王子
天仁2年(1109)に熊野参詣をした藤原宗忠は、10月20日に切部の水辺で祓をした後、切部王子社に奉幣しています。当時は分陪支王子とも呼ばれたそうです。それから約70年後の承安4年(1174)9月27日、参詣途中の藤原経房は切目王子で里神楽を催し、一切経を六行分奉納しています。この王子社での経供養や神楽の奉納は慣例だったようで、承元4年(1210)4月26日に、修明門院は経供養を行って、「聖女」八人等にそれぞれ白布一反を与え、応永34年(1427)9月25日には、足利義満の側室・北野殿が神楽を催しています。また、正治2年(1200)12月には、後鳥羽上皇がこの王子社で歌会を催しており、この時の「熊野懐紙」が残っています。平治の乱(1159)が起こった際には、参詣途中の平清盛が、切部王子から都に引き返し、元弘の乱(1331)の時には、大塔宮がこの王子社で熊野権現のお告げを受けて、十津川に落ち延びるなど、数々のエピソードもあります。室町時代には、熊野の若宮以下の五所王子を祀る五躰王子とされました。天正13年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めで焼亡し、その後、移築復興したといわれ、江戸時代には「五躰王子社」とも称されました。明治時代に切目神社となり、現在に至っています。

  

   

足の宮の由来
昔一人山伏が熊野詣りの途中島田まで来たころで足が悪くなった、今の井尻谷のあるあたりである。痛む足を引きずりながら山伏はやっとのことで谷の入口までたどりついたがとうとうそこで命絶えたという、山伏の霊は里人らによってねんごろに弔われたが不思議なことに埋葬した頭の上に大きな石が出てきた。人々は、そのことに霊力を感じその石を祭神として祀り、足痛を治してくれると信仰するようになった。土地の人々からは、「山伏さん」「やまっさん」とあがめられている。明治の末、神社合祀の時、熊野九十九王子の一つである当中山王子社へ合祀されたが、御本体は名杭の集落のはずれにある。各地から、草鞋(わらじ)や草履(ぞうり)を持ってお詣りする人が多い。又、供えている草履(ぞうり)をいただいて帰る人もいる。

   

史跡 中山王子跡

昭和33年4月1日県指定

中山王子は、熊野九十九王子の一つで、建仁元年(1201)の後鳥羽上皇の「熊野御幸記」に、「先陣また山を超えて切部中山王子に参る」と記されている。しかし、御幸記より約100年前の天仁2年(1109)の「中右記」に「切部川を渡り同山出る祓」とある。中山王子なる名は見られないが、当時すでに小社があったと考えることができる。現在の中山王子の位置は、中山ではなく榎峠であり、中右記には「山出る祓」と山を超えて参拝しており、御幸記では「山を越えて切部中山王子に参る」とはっきり記されている。中山王子社の位置は、どこであったか不詳であるが、一般に現在地より東約1キロメートルの中山谷に「王子谷」という地名があり、小祀の跡が残っていることからこの地にあったのではないかと考えられる。

平成4年1月7日    和歌山県教育委員会  印南町教育委員会

  
中山王子   
後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家は、建仁元年(1201)10月11日に切部王子付近の漁師の家で、海水で身体を清める塩垢離を行い、翌日「切部中山王子」に参拝しています。定家のような中流の貴族は、民家に泊まることが多かったのです。それに、岩内王子(御坊市)近辺の小宅で宿泊した時に発熱していましたので、病気の身体で、この王子社に参拝しています。承元4年(1210)熊野に参詣した修明門院は、4月26日に切目で宿泊し、翌日、切目中山を徒歩で、次いで輿に乗って、この王子社に参拝しています。江戸時代には中山王子社と称され、境内には、長床という僧の修行場ないし宿所もあり、後世、現在地に移されたという説もあります。明治時代に王子神社となって、付近の小社を合祀して存続し、現在に至っています。

  

史跡 岩代の結松
昭和33年4月1日  和歌山県指定文化財
斉明天皇4年(658)10月天皇と皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は紀の湯(白浜湯崎温泉)に御幸された孝徳天皇の遺児有間皇子は留守官蘇我赤兄の口車に乗せられ、謀叛のかどで捕えられ天皇のもとに護送された。その途中紀の湯を眼前に望み当地の松の枝を結び自分の命の平安無事を祈って歌を詠まれた。
     有間皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌
   磐代の浜松が枝を引き結び
      真幸くあらばまた還り見む
   家にあらば笥に盛る飯を草枕
      旅にしあらば椎の葉に盛る

(万葉集巻二)

有間皇子は紀の湯で中大兄皇子の訊問に対して「天と赤兄と知る吾全知らず」と答えられたが帰路11月11日藤白坂において19才の若さで絞殺された。

昭和30年12月   和歌山県教育委員会   南部町教育委員会

   

岩代王子

熊野に向かう参詣道は、岩代王子から千里の浜に出ます。天仁2年(1109)、熊野に参詣した藤原宗忠は、10月21日に「石代王子」に奉幣し、その約100年後の建仁元年(1201)、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家も、10月12日に「磐代王子」に参拝しています。上皇や女院の御幸の時に、この王子社と那智浜の宮では、拝殿の坂を削って、供奉人の名前と参詣の回数を連署し、打ち付ける習わしがありました。この習わしの様子は、定家の日記のほか、藤原頼資の承元4年(1210)、建保5年(1217)の日記にも記されています。また、『新古今和歌集』には、この習わしを真似て、拝殿の長押に書き付けた。「いはしろの神はしるらんしるべせよたのむ憂き世の夢の行くすゑ」という歌が載せられています。時代は降りますが、応永34年(1427)、熊野に参詣した足利義満の側室・北野殿は、9月25日に岩代王子の前で海に潜っていた「海士」に絹布などを与えています。明治時代には王子神社となり、後に八幡神社(現、西岩代八幡神社)に合祀されましたが、旧地に社殿は再建されました。

  

 

参考資料
  
近畿日本鉄道 http://www.kintetsu.co.jp/
JR西日本   http://www.westjr.co.jp/
   
   
近鉄乗車券  宇治山田-鶴橋 1750円
近鉄特急券 宇治山田-鶴橋 1280円
JR乗車券 鶴橋-御坊 1890円
JR乗車券 切目-鶴橋 2210円
JR乗車券 岩代-切目 180円
JR特急券 御坊-天王寺 1360円
   
フォレストイン御坊
〒644-0032 和歌山県御坊市岩内529番地 
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