切目王子跡  2008.4
   
天仁2年(1109)に熊野参詣をした藤原宗忠は、10月20日に切部の水辺で祓をした後、切部王子社に奉幣しています。当時は分陪支王子とも呼ばれたそうです。それから約70年後の承安4年(1174)9月27日、参詣途中の藤原経房は切目王子で里神楽を催し、一切経を六行分奉納しています。この王子社での経供養や神楽の奉納は慣例だったようで、承元4年(1210)4月26日に、修明門院は経供養を行って、「聖女」八人等にそれぞれ白布一反を与え、応永34年(1427)9月25日には、足利義満の側室・北野殿が神楽を催しています。また、正治2年(1200)12月には、後鳥羽上皇がこの王子社で歌会を催しており、この時の「熊野懐紙」が残っています。平治の乱(1159)が起こった際には、参詣途中の平清盛が、切部王子から都に引き返し、元弘の乱(1331)の時には、大塔宮がこの王子社で熊野権現のお告げを受けて、十津川に落ち延びるなど、数々のエピソードもあります。室町時代には、熊野の若宮以下の五所王子を祀る五躰王子とされました。天正13年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めで焼亡し、その後、移築復興したといわれ、江戸時代には「五躰王子社」とも称されました。明治時代に切目神社となり、現在に至っています。

案内板説明より