中山王子神社 2008.4
   
後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家は、建仁元年(1201)10月11日に切部王子付近の漁師の家で、海水で身体を清める塩垢離を行い、翌日「切部中山王子」に参拝しています。定家のような中流の貴族は、民家に泊まることが多かったのです。それに、岩内王子(御坊市)近辺の小宅で宿泊した時に発熱していましたので、病気の身体で、この王子社に参拝しています。承元4年(1210)熊野に参詣した修明門院は、4月26日に切目で宿泊し、翌日、切目中山を徒歩で、次いで輿に乗って、この王子社に参拝しています。江戸時代には中山王子社と称され、境内には、長床という僧の修行場ないし宿所もあり、後世、現在地に移されたという説もあります。明治時代に王子神社となって、付近の小社を合祀して存続し、現在に至っています。
案内板説明より
   
足の宮の由来(右手に見えるお宮)
昔一人山伏が熊野詣りの途中島田まで来たころで足が悪くなった、今の井尻谷のあるあたりである。痛む足を引きずりながら山伏はやっとのことで谷の入口までたどりついたがとうとうそこで命絶えたという、山伏の霊は里人らによってねんごろに弔われたが不思議なことに埋葬した頭の上に大きな石が出てきた。人々は、そのことに霊力を感じその石を祭神として祀り、足痛を治してくれると信仰するようになった。土地の人々からは、「山伏さん」「やまっさん」とあがめられている。明治の末、神社合祀の時、熊野九十九王子の一つである当中山王子社へ合祀されたが、御本体は名杭の集落のはずれにある。各地から、草鞋(わらじ)や草履(ぞうり)を持ってお詣りする人が多い。又、供えている草履(ぞうり)をいただいて帰る人もいる。
案内板説明より