13

JR布施屋駅---川端王子跡---和佐王子跡---矢田峠---平緒王子跡---奈久智王子跡---松坂王子跡
---塩見峠---松代王子跡---菩提房王子跡---JR海南駅
紀ノ川の南岸にあたる、和歌山市布施屋から、矢田峠・汐見峠を越えて熊野の入口海南へ向かうルートです。
2008年7月6日 晴れ
今回は熊野古道紀州路で、最後に残った一区間JR布施屋駅からJR海南駅までを日帰りで歩く予定だ。もう梅雨明けを思わせる日照りの中を歩くと覚悟のうえで立てた計画だった。
   早朝、自宅を出て、7時23分近鉄宇治山田発、鶴橋経由で天王寺へ、ここから9時29分発JR紀州路快速で和歌山まで行った。和歌山からJR和歌山線に乗り換え11時02分布施屋駅に着いた(写真)。駅から西に民家の路地を進むと三叉路に川端王子跡があった(11:17)。このあたりは入り組んでいて道に迷いながら、次の王子和佐王子に向かって進んだ。和佐歴史研究会の道標と導き石を頼りに進んだが、照りつける日差しに頭が早くもくらくらしだした。夏の日差しの中アスファルトの道を歩くのは決して楽ではない。首にタオルを巻くとすぐ汗でびっしょりになる。井ノ口集落をぬけ、小栗橋に立ち寄り(11:38)、江戸時代の大庄屋だった中筋家住宅を過ぎて(11:59)、県道に出ると左手に何もないが広いスペースがあり、ここに和佐王子跡があった(12:08)。王子跡を示す石と説明板、それに有難いことに、東屋にテーブルとベンチがあるので、ゆっくり休憩して、昼食をとった。日陰で、座って昼食がとれたのでうれしかった。しっかり水分補給をして、日よけ用の傘もさして、矢田峠に向かった。県道を横切り、矢田峠登り口から(写真)(12:37)階段を登って竹やぶの中の道を進むとじきに峠に到着(12:45)。ここから導き石に従い県道の西側の道を行き、県道に出て右折した。別に県道の東側からの道もあるらしい。ここからしばらく県道を歩くのだが、車は多いし、暑いのでまいった、まいった。平緒で右折して旧道に入り、集落の中の平尾自治会館前に平緒王子跡があった(13:26)。ここから少し道に迷い、人に尋ねながらやっと伊太祁曽神社に着いた(13:55)。赤い太鼓橋がある神社の木陰で、小休憩をして、来た道を少しもどり、六地蔵の前を通って(14:20)、海南方面へ県道9号線を歩いた。右手の古い今にも壊れそうな民家の横に奈久智王子の説明板があった(写真)。ここにこの裏の山中に王子跡があると書いてあった。細い道で、こんな所に王子跡があるのかしらと半信半疑で山中に入って行くとすぐに王子の説明板があった(14:34)。だがただそれだけで拍子抜け。ふたたび県道を進んだ。阪和自動車道の下をくぐり、武内神社に立ち寄った(写真)(14:54)。ここは日本書紀に登場する武内宿禰(たけうちのすくね)誕生ノ井戸があるとのことだが、草がぼうぼうで、鳥居も倒れかけて、支え棒がしてあった。少しもどり、阪和自動車道に沿って、新池、大池を右手に見て、四ツ石地蔵(写真)(写真)(15:23)のある多田の町を過ぎて、県道に出ると、木々に埋もれそうな祠があった。これが松坂王子だった(15:45)。再び車の往来が激しい県道を進んだ。途中左に古道の説明板があり、石畳が残っているところがあったが、人があまり通らないらしく、草がぼうぼうで通行不能。蜘蛛池の縁を進み、登り坂を登りきったところが汐見峠だ(16:10)。呼び上げ地蔵が祀ってあった。坂を下って県道18号線を横切り直進し、左折して春日神社参道を登ると左手に松代王子跡があった(16:34)。この上の春日神社にも立ち寄り、近道と思い、下ったところ、方向を間違い、県道18号に出てしまって大回りをして、また同じ道を通って、国道370号線を渡り、今日の最終王子跡、菩提房王子に着いた(17:06)。街角にある何の趣もない王子跡だった。後は一之鳥居跡を通って、JR海南に向かうだけ。以前にも逆方向の道を歩いたことがあるので、大丈夫だろうと、気も緩んだのか、またまた道を間違え、結局駅に着いたのは17時43分(写真)。予定列車が17時55分発だったのでぎりぎりだった。駅では脱水一歩手前で、無性に甘いものと水分を欲し、自販機で、アイスコーヒーとアイスティーをがぶ飲みした。
今日で紀伊路を踏破した。”雪(吹雪まがい)の降る日”や”かんかん照りの日”、”絶好のハイキング日和の日”道に迷いながらの紀伊路だったが、とにかく万歳!

 

案内板の説明
  
河辺の熊野古道
 平安時代以降に盛んになった熊野信仰を背景に、多くの人々が熊野を訪れました。京から熊野へ向かう熊野古道は、和泉山脈の雄ノ山峠から南下して、市城の東部を南北に縦断するように続いており、途中で紀ノ川を渡ります。奈良県の大台ケ原に源を発し、西流して紀伊水道に注ぐ紀ノ川は、河川の流域に広大な平野部を形成しています。古道のルートや渡し場の位置も、紀ノ川の流路の変化に伴って変換したと考えられます。熊野三山への遥拝所であった王子社跡は、市内で九ヶ所程度知られており、川辺王子付近が往時の風情をよく残していると思われます。また、秋月の日前宮や和佐の歓喜寺などは熊野参詣にゆかりのある社寺として知られています。
  
川端王子
後鳥羽上皇や修明門院の御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、叶前王子に参ったのち、日前宮に参拝しています。その後、両人は和佐・平緒王子社に参らずに、奈くち(菜口)王子社に参拝するのですが、川端王子は中世の参詣記には登場しません。したがって、中世には、この王子社は無かったものと考えられます。しかし、江戸時代初頭の頃には、二社の和佐王子社があったそうです。一社は坂本(和佐王子)で、他の一社は元は熊野古道沿いの川端にあったのが、現在地に移されたといわれます。この王子社が、川端王子と呼ばれるようになったようです。明治時代に高積神社に合祀されて、取り壊されましたが、地元の人たちがこの小祠を建て、今に残されているのです。
  
小栗橋
熊野古道は、別名小栗街道とも呼ばれる。これは、小栗判官と照手姫がこの道を通って、湯の峯温泉まで湯治に出掛けたという伝説に由来するものである。昔は、石造りの橋であったこの橋も、小栗街道にちなんで、小栗橋と呼ばれている。
井ノ口禊所跡
上皇が熊野に参詣するいわゆる熊野御幸は、延喜七(907)年の宇多天皇から弘安四(1281)年の亀山上皇まで行われていた。古い歴史をもつ日前・国懸神宮へは、奉幣使が派遣された。その奉幣使が禊を行ったのがここから約350メートル西の辺りである。
旧川端王子社推定値
江戸時代に編纂された「紀伊続風土記」には、旧川端王子社は現王子社跡の西七町(約700メートル)の小栗街道沿いに位置していたと記されている。この周辺に旧川端王子社が存在していたことも推定される。
平成10年3月
和佐歴史研究会・和歌山教育委員会
   
旧中筋家住宅
中筋家は薩摩出身の文貞坊という人物が天正13(1585)年に豊臣秀吉による根来寺の焼打ちを逃れてこの地に移住したことが初めと伝えられる。江戸時代には和佐組(和佐地区の旧村々の集合体)の大庄屋(藩の農村支配の末端に位置する豪農)であり、名字帯刀を許されていた。屋敷地は南北56メートル、東西38メートル(約2100平米)あり、この広い敷地の南側東寄りに表門(長屋門)、中央東寄りに主屋があり、北西部に長屋蔵と土蔵が建ちならんでいる。表門は桁行15間余りで、中央に二間を扉口構えとし、東に土間と居宅三室、西に物置三室がある。主屋は正面に式台があり、大庄屋の家宅としての格式をみせている。式台を上ると取次の間があり、次の間、屋敷と続き、これらが接客のための間取りとなっている。建物の向って左側は、土間とそれに続く台所・居間となっており、これらが日常の居住部分である。居間の奥には二十畳敷きの大広間があり、床・棚・書院を設けている。居間の上には三階造りの見晴部屋があり、外部から見ても特徴的な構えを示している。長屋蔵は二階建で、桁行約15間、南端を通用門とし、その他は土蔵造で内部を間仕切をし、六箇所に入口を設けている。内蔵は主屋大広間の西側にあり、二階建土蔵である。御成門は、屋敷の北側につくられた一間薬医門である。主屋が建てられた年代は、江戸時代末期(19世紀中葉)と考えられる。このことは、主屋大広間床脇の小襖に野際白雪斎(幕末紀州藩絵師・1819-1871)の描いた襖絵があることからも推定される。旧中筋家住宅は建立年代は新しいものであるが、建築的に優れ、大庄屋の屋敷構えを完存しており、また、江戸時代の豪農の豊かな財力と当時与えられていた権威を示す歴史資料としても貴重な文化財である。
平成5年11月1日
和歌山県教育委員会・和歌山市教育委員会
  
和佐王子跡
後鳥羽上皇や修明門院の御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、日前宮奉幣使となって、叶前王子から日前宮に赴いたため、和佐王子社や次の平緒(平尾)王子社には参拝していません。しかし、御幸の一行は熊野古道を通り、和佐王子社に参拝したものと思われます。江戸時代初期には、二社の和佐王子社跡があり、一社は川端(川端王子)で、他の一社がこの王子社跡です。紀州藩主頼宣は、寛文年間(1661〜72)にこの地を和佐王子跡と定め、緑泥片岩に「和佐王子」の四文字を刻んだ碑を建てています。『紀伊続風土記』には、川端王子を和佐王子と称し、この王子社は坂本にあったことから、「坂本王子」と称すと記されていますが、川端王子を中世の和佐王子とするには無理があります。この王子社は明治時代の神社合祀で、高積神社に合祀され、今は往時の石碑を残すのみです。

   

平緒王子跡

平尾王子とも書かれています。後鳥羽上皇や修明門院の御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、日前宮奉幣使として、日前宮に赴いたため、和佐王子社とこの王子社には参拝していません。定家は日前宮から奈久智王子に向かい、この王子社には先達が奉幣しています。僧実意の日記(『熊野詣日記』)、応永34年(1427)9月22日条によると、足利義満の側室・北野殿は、川辺で垢離を行って身心を清め、和佐峠で休息したのち、山東(和歌山市)に泊まっています。この王子社は、天正13年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めで衰退したといわれ、その後再建されて、「平緒王子社」と呼ばれていましたが、明治時代に都麻津比売神社(つまつひめ)に合祀されました。

   
伊太祁曽神社
祭神 :: 五十猛神(いたけるのかみ) 配祀 大屋都比売神、都麻都比売神
五十猛神はまたの名を大屋毘古神と言う。有功(いさお)の神とも言う。
五十猛神は浮宝(船)の神・樹木の神・いのちの神である。
由来 :日本書紀の一書(第五)の伝えに、素盞嗚尊(須佐之男の命)が言われるの に、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。 用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛神,大屋都比売,都麻都比売 の三柱の神がよく木種を播いた。五十猛神は「紀伊に坐す大神」と讃えられた。*1 照葉樹林の多かった日本に松等の針葉樹が縄文後期に大陸や半島から持ち込まれた事の伝承とも思われる。
日本書紀の中に「わが子の治める国」とあるのは重大である。わが子とは五十猛命、国とは大八洲である。天孫族が渡来する以前であろうが、この国の王とも言うべき存在であったとする有力な伝承が日本書紀の編集時には残っていた事を示している。
奈久智王子社跡
「御幸記」(建仁元年(1201)の後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した藤原定家の旅行日記)には「遠路山々の道を凌いでなくちの王子に参る」と記されている。奈久智という呼び名の由来については諸説あるが、名草郡(現在の和歌山市東部と海南市の一部の古称)の各所に通じる道がこの付近に集中しており、そのために「名草の口」の意味で「名口」と呼ばれたともいわれている。この説明板の前の道が熊野参詣道であるが、王子社はここから約20メートル西側の山際にある。奈久智王子は、和歌山市内にある最後の王子社で、次は海南市且来(あっそ)にある「松坂王子社」である。

   平成5年8月2日

和歌山県教育委員会

   

奈久智王子社跡

この王子社名を、藤原定家は「奈くち」藤原頼資は「菜口」とそれぞれの日記に書いています。定家や頼資は日前宮に奉幣ののち、満願寺(和歌山市寺内)に立ち寄り、ついでこの王子社に参拝しています。王子の所在地については、ここから約1.5キロメートル南の、薬勝寺付近とする説もあります。これは、薬勝寺付近が、かつて「郡口郷」と呼ばれていたことによるもので、『紀伊続風土記』は、薬勝寺村付近を比定しています。当地を奈久智王子跡とするのは、『紀伊国名所図会』に「奈久智の王子社、奥須佐村にあり」、『紀伊続風土記』奥須佐村の項に、「王子権現の社面二間妻一間半板葺にてありしに、今退転す」を、根拠にしたからです。しかし、どちらが本当なのかは、現在では不明です。頼資の日記によると、この王子社についで、垂鞭・柏原・松坂(大野坂)・松代・菩提房・祓戸(鳥居)等の王子社がありました。
   
熊野古道(四つ石)
かつて多田にあった三上院千光寺の礎石を集めて地蔵尊を祀ったのが、この四つ石地蔵です。このすぐ前を通る熊野古道は、古代・中世に牟婁の湯行幸や熊野三山参詣の道として開けました。平安時代の末には、後白河上皇らによる熊野参詣がさかんにおこなわれ、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどのにぎわいを見せました。伝説、浄瑠璃で有名な小栗判官と照手姫の話に由来して、別名小栗街道とも呼ばれます。
昭和59年3月
海南市教育委員会
    
松坂王子跡
この松坂王子は熊野九十九王子の一つで古くから熊野詣の人達が遥拝し又休憩した社の跡である。この王子社の廃絶は明らかでないが寛文の頃すでに八幡神社の末社として退転していた。藩政時代の熊野路は和歌山城近くから紀三井寺・内原・黒江を経て藤白へ出るよう改められ祓戸以北の王子社は衰退した。熊野信仰千年の歴史と文化を記念するこの王子跡は貴重な意義を持つものといえよう。
昭和49年5月3日
和歌山県教育委員会・海南市教育委員会
   
汐見峠
古の都人が、熊野への長い旅の途中で憧れの海を見たのは、且来(あっそ)から井田へ越えるこの峠でした。目の前に広がる海原を見たとき、その大きさと風景の美しさに歓声をあげ、いつまでも立ちつくしたことでしょう。この感動がそのまま「汐見峠」の由来になりました。また、安政2年(1855)の大地震のとき、大津波に逃げ場を失った人々が、汐見峠のお地蔵様の不思議な力に呼び上げられて、救われたと伝えられています。それ以来「呼び上げ地蔵」といわれ、信仰を集めてきました。地蔵様の台座には「志おみとうげ 大くり道」と刻まれています。大くり道というのは、小栗街道のことです。
平成8年12月1日
海南市教育委員会
  
松代王子
春日神社
祭神 : 天押帶日子命 配 天照大御神
摂社 : 若宮八幡社「譽田別命」、粟田神社「彦國葺命」、蛭子神社「蛭子大神」、弁財天社「嚴嶋姫神、大歳廼神」、
      祇園社「素盞嗚尊、櫛稻田姫命」、稲荷神社「宇賀魂神」、松代王子社「松代王子」
春日神社の由緒 : 天押帯日子命は第五代孝昭天皇の皇子であり、春日の朝臣彦国茸命の庶族がこの地に在住し、祖神としてまつったのがはじまりである。 聖武天皇より御代々の勅願所であり、桓武天皇の延暦二十一年、正一位大春日大神の称号を賜り、社領九町六反の御寄付があったが、豊臣公検地の時没収された。 元弘二年、大塔宮護良親王が熊野へおしのびの時、当社へ御参篭になり、神主三上美作ら大野十番頭が警護し、親王を神殿にお隠し申しあげるということがあり、今も神殿三扉の一つは空位である。  当社御鎮座当時の古縁起巻物、御証文、神宝等その多くは、明徳二年、大野城主山名氏が大内氏と合戦を交えた際紛失し、その後天正五年八月、大野干潟大乱の時、御証文、旧記録請書等は、紛失を恐れて高野山花王院へ預けられたが、火災によってまたも焼失した。 「本社は、天正十三年、元春日という神林より現在の三上山に移転鎮座したため、中古より春日山と称されるようになった。
お祭り 7月第1土曜日は夏季大祭、10月10日の秋の例祭には神輿の渡御などを盛大に行う。
   
菩提房王子
菩提房王子は、熊野九十九王子のひとつですが、王子というのは、熊野詣の人々の遥拝所または休憩所でした。『紀伊続風土記』には、「鳥居村界熊野古道に字ボダイといふあり、その廃跡ならむ」と記されていますが、早い時期にこの王子は失われたのでしょうか。現在は、「ボダイ」という字名はありません。なお、藤原定家の『熊野御幸記』(建仁元年(1201)10月8日の条)には「・・・次参松代王子、次参菩提房王子、次参祓戸王子、次参藤白宿」と記されています。
平成8年12月1日
海南市教育委員会

  



   

参考資料
  
近畿日本鉄道 http://www.kintetsu.co.jp/
JR西日本   http://www.westjr.co.jp/
   
   
近鉄乗車券  宇治山田-鶴橋 1750円
近鉄特急券 宇治山田-鶴橋 1280円
JR乗車券 鶴橋-布施屋 1110円
JR乗車券 海南-鶴橋 1280円