和佐王子跡  2008.7
   
県道沿いのスペースに和佐王子跡を示す石碑と説明板、東屋がある。
   
後鳥羽上皇や修明門院の御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、日前宮奉幣使となって、叶前王子から日前宮に赴いたため、和佐王子社や次の平緒(平尾)王子社には参拝していません。しかし、御幸の一行は熊野古道を通り、和佐王子社に参拝したものと思われます。江戸時代初期には、二社の和佐王子社跡があり、一社は川端(川端王子)で、他の一社がこの王子社跡です。紀州藩主頼宣は、寛文年間(1661〜72)にこの地を和佐王子跡と定め、緑泥片岩に「和佐王子」の四文字を刻んだ碑を建てています。『紀伊続風土記』には、川端王子を和佐王子と称し、この王子社は坂本にあったことから、「坂本王子」と称すと記されていますが、川端王子を中世の和佐王子とするには無理があります。この王子社は明治時代の神社合祀で、高積神社に合祀され、今は往時の石碑を残すのみです。

   案内板説明より