13

南海電鉄 井原里駅---佐野王子跡---八丁畷地蔵---塙団右衛門直之の墓---樫井王子跡(籾井王子)---奥家住宅---淡野六郎兵衛重政の墓
---樫井古戦場跡---一岡神社---厩戸王子跡---信達一之瀬王子跡---林昌寺(長岡王子跡と推定)---地蔵堂王子跡---馬目王子跡---
紀州街道山中渓歴史街道---山中神社---JR山中渓駅
     
2008年1月(13日-)14日  晴れ
   
1月13日、14日の連休を利用して一泊二日で、紀伊路 平松王子から南海電鉄井原里駅まで歩いた。13日近鉄宇治山田駅から7時23分の特急で鶴橋まで、ここでJRに乗り換えて天王寺まで、ここから関空快速(9時34分発)で鳳まで、もう一度乗り換えてJR阪和線で信太山駅には10時ごろ着いた。何度も乗り換えたが、都会なのでほとんど待ち時間がなく、あまり苦にならない。さすが大阪、伊勢とは違うと変なところで感心した。
昨年12月、日没で道がわからなくなり、平松王子に行かず、JR信太山駅から帰った。前日13日はまずその続きから。10時過ぎにJR信太山駅を出発し、道に迷いながら南海電鉄 井原里駅に到着。井原里駅から南海電鉄でホテルのある岸和田まで行った。
     
翌日、1月14日は早朝ホテルを出て、南海電鉄で井原里駅まで来て、昨日の続きの紀伊路歩きに出発(08:09)。井原里駅から170号線を東に進み、佐野川交差点のの1本先の道を右折した。旧街道を進み、一度佐野川橋で広い道路に出て、日新小学校の向こうの鉄塔前で斜め左に道を進んだ。住宅地の中を通り、右に木の熊野道の道標のところを右折すると、生垣の中に佐野王子跡の石碑が見えた(8:30)。又もとの道にもどり、再び広い道に出た。前に湯川家具があり、ここでこの道を横断してこの少し向こうを左折した。再び街道を進むと道端にぶどう道と書かれた石の道標が見つかった(8:52)。関西空港自動車道の下を通り、街道沿いの古い家々を眺めながら長滝西の集落を過ぎ、田畑の中の道を進むと右側に八丁畷地蔵があった(9:44)。道は集落の中を通る。左に塙団右衛門直之の墓が見え(10:01)(写真)、次はいづみモータース奥の樫井王子跡(籾井王子)を探しながら進んだ。HPでこの王子はどこにあるのかわからないと書いてあったので、通りがかりの人に聞いたら、右手のいづみモータースの奥の家を指差して(写真)「あの家にあるから尋ねて見たら」と(写真)。でもあまりにもぶしつけで躊躇しつつ、思い切ったその家のおばあさんに声をかけてみた。うちの庭にあるから、そこから入ってみていいですよ。」との言葉に塀沿いに(写真)庭の奥まで行って見せてもらった(10:04)。立派な石碑だった。これではこの家の人に尋ねないとこの王子跡の場所はわからないだろう。街道沿いを進むと右手に奥家住宅があった。奥家は南北朝時代から和泉国の有力な国人で、江戸時代には樫井の庄屋を代々務めた家だそうだ。国の重要文化財に指定されている。驚いたことにこの家には現在でも人が住んでいるらしく、門には表札もかかっていた。私たち古道を歩く者にとっては、「わあーりっぱな家」だけでいいが、実際住んでいるひとの身になると広いが、住みにくいだろうと思う。おまけに他人に覗き込まれてはたまったものではないだろう。右に淡野六郎兵衛重政の墓を過ぎ(10:17)(写真)、正法寺(写真)、福正寺(写真)を過ぎて、集落を外れると、明治大橋という立派な橋に出た(10:35)この橋のたもとに樫井古戦場跡の石碑が建っていた。明治小橋を渡り(10:42)、海会寺跡、一岡神社に着いた。ここは厩戸王子を合祀している神社だ。あたり一帯は広い公園になっていた。ここで一休みして、先に進み、大苗代バス停を右折して、ゴルフ練習場の方に向かった。墓を過ぎ、練習場の横に厩戸王子跡があった(11:12)。再び街道にもどり、信達集落を抜けた。このあたりには信達宿本陣跡など宿場の町並みが残っていた(写真)。この集落を過ぎたあたり右手に石垣があり、ここが信達一之瀬王子跡だ。この向い、道路左手に小さな石の道標があり、「左あたご道」と書いてあった(写真)。ただこのあたりでうろうろして探しまわり、結局よくわからなくて、あたご道の方向に左折し、林昌寺に行った(12:12)。この寺のあたりが長岡王子跡とのことだ。ちょうど護摩供養をしていて、大勢の人が来ていた。そこで人に聞いて、やっぱりあの角の石垣の中に信達一之瀬王子跡があるに違いないと確信して、寺を下り、もと来た道にもどった。今度は石碑、仏像に刻んだ字を確認しながら見ていくと王子跡にあるという馬頭観音の字が読めた。王子跡の表示はないが、ガイドブックによるとこの馬頭観音が目印らしい。さらに古道を進み、ガードをくぐり、信達岡中を通る。大きな木が街道から見え、左折して岡中鎮守社に立ち寄り(12:43)(写真)、しばらく行くと右手に和泉鳥取の駅が見えた(13:12)。山中橋を渡り(13:13)、右手に見えた食堂で昼食。ここで店の人に色々古道について教えてもらった。すぐ手前に大きな鳥居があったらしいが、見過ごしていた。それで又もどり、この鳥居を見学(14:08)。ここは波太神社の遥拝所だったとのことだ。昔はこの向いを山の方に進んで、琵琶懸けと呼ばれる難所を越えたが、現在は通行不可。府道を進んで滑下川を渡り(14:15)、住宅街を左折すると、小さな公園に地蔵堂王子跡があった(14:22)。又府道にもどり、高速道路にそって歩いていくと、馬目王子跡が道の左手にあった(14:37)。ここを過ぎると新しい石畳で整備された山中宿歴史街道に入っていった(14:47)。この道沿いには筆子塚、山中小学校跡、地福寺 子安観音尊、旧庄屋屋敷(写真)、山中神社、山中宿本陣跡、道祖神など見所も多い。山中神社には合祀された馬目王子が祀られている。道祖神の目の前がJR山中渓駅だった(15:11)(写真)。無人駅だった。15時20分のJR阪和線普通列車で日根野まで行き、そこで快速急行に乗り換えて天王寺まで行き、環状線で鶴橋まで。鶴橋17時53分発近鉄で宇治山田まで無事到着。今日は色々迷い時間のロスもあったが、行くべき王子跡をすべて訪ねて無事かえってこれてよかった。昨日は道がわからなくて省略した石才あたりは又機会があったら歩いてみよう。

 

案内板の説明
   
佐野王子
後鳥羽院は,『わすれずよ松のはこしに波かけて 夜ふかく出しさのの月かげ
藤原定家は、『冬の日にあられふりはへ朝たては 浪に浪こすさのの松原』
とそれぞれ詠んでいる。
   
   
八丁畷の石地蔵
安松八丁畷の石地蔵

石造のほこらのなかに安置されているこの地蔵は、いまお顔は補修がされてもとのものではないが、そのほかは原状のままで台石共に和泉砂岩の一石で、向かって右に正平十八年(1363)の年号がきざまれてあって、いまから約六百三十年前のものであることがわかる。どのような理由でつくられたものか知ることはできないが、この街道を通る多くの人達をむかえ、また見送っている。むかし大阪の人が途中でおいはぎにあいかけてこの地蔵のところにかくれてその難をのがれたということから一層信仰する人がふえ、その人達が奉納したという石燈籠がくずれてはいるが、いまも残されている。一時、民家に移されていたが大正の初め頃にこの旧位置におかれたという。

  
  
塙 団右衛門の五輪塔

慶長20年(1615)の豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣の樫井合戦で討死にした塙団右衛門直之の五輪塔である。団右衛門は尾張国羽栗の人で加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功をあげ、名を知られたが、関ヶ原の戦い(1600年)以後浪人として僧となり鉄牛と号した。大坂冬の陣(1614年)が起きると豊臣方に属し、大坂城に入城した。慶長204月、夏の陣がおこると、豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく泉州に進んだ。団右衛門は先鋒隊をひきいて429日早朝熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入した。安松、岡本、樫井で激戦が展開されたが、大坂方は敗れ、団右衛門はこの地で討死にした。ときに48歳という。団右衛門を討ったのは上田宗箇、亀田大隅あるいは八木新左衛門などの説があり一定しない。五輪塔は寛永8年(1631)に紀州の士小笠原作右衛門が造立し、石灯籠は八木新左衛門の孫が奉納した。250回忌(1868)には団右衛門の子孫の櫻井氏が補修し周囲を整え、当地の観音寺に位牌を納めた。以後当地の人たちにより守られている。

  
  
奥家住宅
奥家住宅
重要文化財  昭和44年6月20日指定
奥家は南北朝時代から和泉国の有力な国人で、江戸時代は樫井の庄屋を代々勤めた。建築年代は慶長・元和のころ(17世紀はじめ)と推定される。建築当初は、ダイドコが一間も土間部分に突き出す「食い違い」の四室とさらに奥に二室を有する六間取りで、この種の型としては、泉南地方ではもっとも古くて大きい建物である。柱・差鴨居・梁は太くて大きく、野材の用い方も古式である。後に、東側に座敷四室と玄関をつけ、土間からは裏へ対屋を出してカマヤとし、桁行十三間半、奥行は土間部分で七間余りもある大規模な民家である。国の指定は、土屋・長屋門・土蔵・土塀で、昭和45年・6年に半解体修理をおこなった。

1993年8月  泉佐野市教育委員会

      
    
淡輪六郎兵衛の宝篋印塔

慶長20年(1615)、大坂夏の陣がおこり、豊臣、徳川方が最初に激突したのが樫井合戦である。この石塔は、豊臣方の武将としてこの地で討死にした淡輪六郎兵衛の宝篋印塔である。淡輪氏は古くから和泉国淡輪(現岬町)の豪族であった。六郎兵衛の姉は豊臣秀次の側室の小督局で、その子お菊も夫とともに豊臣方として戦った。慶長204月、徳川方は全国の大名に大坂城を攻撃するよう命じた。これに対して、豊臣方の一軍は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく泉州に進んだ。六郎兵衛はその先鋒隊となり429日早朝、塙団右衛門とともに熊野街道を南下し、樫井で待ち構える浅野軍に突入し乱戦の中で討死にした。この宝篋印塔は寛永16年(163925回忌にあたり淡輪氏の末裔の本山氏が淡輪にて石材を整えて建立した。その後も当地の人たちにより守られてきた。

   
   
樫井古戦場跡
史跡 大坂夏の陣樫井古戦場

大坂夏の陣の激戦の一つである樫井合戦は、元和元年(1615)四月二十九日ここ樫井の地で展開された。冬の陣の和議のあと外濠を埋められた大坂方はこのたび先手をとって出陣し泉州へは大野主馬を主将として二万余の大軍を差し向け、徳川方の和歌山城主浅野長晟の軍勢五千余を押えようと図った。二十八日浅野方の先陣は佐野市場へ到着、大坂方は岸和田を越えて進撃を続け翌日、両軍の衝突はもはや避けられない状態となった。数的には劣勢な浅野方の諸将は軍議の結果軍を市場から安松、樫井に移した。大軍を迎え討つには市場は東は野畑が広いうえ山遠く、西は海で浜辺が広く馬のかけひきも自由な所であるから不利、それに比べて安松、樫井は東は蟻通の松原、西には樫井の松原が海辺まで続き中間には八丁縄手、その周囲が沼田のため豊臣方の大軍は動かし難い地形で、小勢の浅野方は有利だと判断した。一方大坂方はここで取返しのつかない大敗を演じた主将大野主馬は慎重な作戦をたてていたが、先手の大将 塙団右衛門と岡部大学が先陣争いをし小勢飛出してしまった。二十九日未明、塙、岡部の両将を迎え討った浅野方の勇将 亀田大隅は、安松を焼き払い池の堤に伏せた鉄砲隊で大坂方を悩ましながら、樫井まで引き下がりここで決戦をいどんだ。壮烈な死斗が街道筋や樫井川原でくり返された。一団となって戦う浅野方、ばらばらの大坂方、まず岡部が敗走し塙は樫井で孤立のまま苦戦を続け、遂に矢を股に受け徒歩でいるところを討ちとられてしまった。かくで樫井合戦は大坂方の敗北で幕を閉じこの夏の陣緒戦が大坂方の士気に大きく響き、この後十日もたたない五月七日遂に堅固を誇った大坂城も落城し、豊臣氏はここに滅亡したのである。

泉佐野市   泉佐野市教育委員会

   
   
一岡神社
一岡神社の由緒沿革
第29代欽明天皇の御代(西暦539)悪疫日に増して激しく流行するに及び、時の長人一岡神社に平癒祈願うぃなさしめたる処、神徳顕著に現証され、その寄徳を仰ぎ、山城国に御分霊を斎して疫病除け祈願の神と定められたという。その後第33代推古天皇の御代、西暦592年に厩戸皇子(聖徳太子)はこの地に七堂伽藍を建立、海営寺と称し一岡神社を海営宮と改め鎮守神として御供田三反歩を供して崇敬され、又後の第45代聖武天皇の御代(西暦724年)高僧行基は社の南に一大溜池を築造、海営宮池と名付け神社、寺共に修復されしが、第106代正親町天皇の御代天正5年(西暦1577年)織田信長の兵火に罹り焼失、その後第107代後陽成天皇の御代(西暦1596年)に村民氏子によって新築再建。その昔は正一位の神階を賜り境内3238坪、境内外実に6760坪に及び、尚1500坪のお供田を有し日根郡内唯一の大社として栄え祇園さんとして親しまれ現在に至っております。
  
海会寺跡
海会寺跡は国指定史跡で、白鳳時代(約1350年前)に建てられた古代寺院で法隆寺式伽藍配置をとっている。軒丸瓦は、大和・木之本廃寺、摂津・四天王寺と同じ(木製の型)でつくられている。また、すぐ隣から海会寺を建てた豪族の居館(屋敷)跡が見つかっている。この屋敷は、当時の一般的な家屋に比べ5倍もの規模をもち、7世紀初めから9世紀代までに幾度か建替えられながら、国政庁(昔の地方行政庁)のように整然と企画・配置されていた。このことから、有力豪族が何世代かにわたり、勢力を強めながらこの地を治めていたことが分かる。
   
   
厩戸王子跡
所在地名 泉南市中小路
此処は熊野九十九王子の一遺阯であって、建仁元年十月七日後鳥羽院院熊野御幸の時に、王子に入られたことが、熊野御幸記に見えている由緒ある史跡で、その記録によれば、馬戸王子あるいは厩戸王子とも呼ばれ、後には筆王子と称せられた。以前は小祠であった厩戸王子神社又は筆王子神社とも称した。明治40年一岡神社に合祀された。
   
厩戸王子跡
史跡の説明には、厩戸王子には1201年(建仁元年)年10月7日、後鳥羽上皇が参られ、信達宿の戸御所に宿泊されたとある。
厩戸王子は、別に馬戸王子・馬留王子・筆王子とも呼ばれていたようである。
馬留という名は、古道では後2カ所あるが、急坂が近くにあり、宿をとるところから、そう呼ばれているようである。
熊野三山への参詣の道すがら、険しい道のりを超えるため馬を留め宿を取り、明日の備えたのであろう。
この王子は、第一の窪津王子から数えて17番目の王子神社にあたるという。
  
  
信達宿本陣
この地は、中世より賑った熊野詣での宿駅として栄え、江戸時代には、紀州・徳川家の参勤交代の街道(紀州街道)となり、本陣・旅籠などが設けられました。今日も、往時の姿を偲ばせる街道筋です。

  泉南市

  
本 陣
本陣とは江戸時代、街道の宿場に置かれた大名・公家・幕府役人などえらい人々の宿泊所である。起源は1363年(正平18・貞治2)年、室町幕府2代将軍足利義詮が上洛の時、その旅宿を本陣と称して宿札を掲げたのに始まるという。おもに街道の山越え・渡し・分岐点に設けられ、特に参勤交代の往復にその職能を発揮した。熊野古道沿いには、市場の本陣のほか岡中・中小路・北野に臨時宿泊所が設けられ、紀州公の参勤交代路として幕末まで続いていたが、明治維新で幕府・大名の保護を失い、1870(明治3)年に廃止された。和歌山県でも大和街道沿いに本陣があり、その周辺は街道の風情を今も残している。
  
   
長岡王子跡
林昌寺・長岡王子跡
躑躅山林昌寺は、45代聖武天皇の勅願により行基により開かれた名刹である。もともとの山号は、温泉山であったが、73代堀川天皇が行幸した際、山躑躅が見事であったので山号を躑躅にしたという。創建時には威容を誇っていた大伽藍は、信長の攻めに塵芥に帰してしまったという。現在の建物は、江戸時代に入ってから建立されたものという。先の往生院とともに京都仁和寺を総本山とする真言宗御室派に属し、泉州地方の弘法大師信仰の中心として知られている。永禄8年2月28日長崎温泉(雲仙)山の修験僧祐海上人が、この地の海岸から不動明王の縁日である28日に渡海したという。そのくだりは、山門の脇に建つ「補陀洛渡海碑」に記録されている。
   
   
地蔵堂王子
熊野詣が盛んにおこなわれていた頃(平安時代後期・1200年ごろ)その道筋に熊野権現の分神が祀られていました。これを「王子」といい、浪速(大阪市)から熊野(和歌山県本宮市)までの間におかれ、総称として「九十九王子」と呼ばれていました。そのうち阪南市内には、二つの王子があったとされ、その一つがこの「地蔵堂王子」です。現在地福寺にある「子安地蔵」は、もとは地蔵堂王子のご神体であったとされています。また、この地蔵堂王子の南側に、「琵琶ヶ岸懸」があり、熊野詣で最難間とされていました。
   
   
馬目王子
熊野詣が盛んにおこなわれていた頃(平安時代後期・1200年ごろ)その道筋に熊野権現の分神が祀られていました。これを「王子」といい、浪速(大阪市)から熊野(和歌山県本宮市)までの間におかれ、総称として「九十九王子」と呼ばれていました。そのうち阪南市内には、二つの王子があったとされ、その一つがこの「馬目王子」で大阪府最後の王子です。場合によって「ウハ目王子」とも呼ばれています。字名や言い伝え等から、この周辺にあったとされています。現在、馬目王子のご神体は山中神社に祀られているといわれています。また、地域では「足神さん」と呼ばれ親しまれています。

阪南ライオンズクラブ

      
   
山中神社
承暦3年(1079)8月8日、澤四郎善眞が紀州の岡崎より、信仰する八王子神(あまのほひの命)をもって当山中に移り住みこの地におまつりした。後日、神のお告げにより当地の西北にある高山の頂上に社(八王子神社上之宮で現在は跡地)を建てておまつりした。この山中神社には、上之宮より移記した八王子神(本地十一面観音)をおまつりする社と、馬目王子(熊野古道九十九王子社の一社)の社とがある。元和3年(1613)ごろ、この観音は盗難にあったが、いつの間にか元の社にかえされていたといわれている。
     
    
山中宿本陣跡地
元和5年(1615)徳川ョ宣公が紀州に封ぜられてより、参勤交代時の本陣があった跡地である。旅宿としてではなく、休憩、昼食時の本陣である。紀州公がこられる時は近郷より三千人もの人夫、助人がこの地に集り、炊飯、運搬、補給、清掃等の仕事にあたった。建物は建て替えられているが、土壁にかこまれた屋敷、広大な庭、老木、苔むした庭石など往時の盛観さが偲ばれる。
     
    
道祖神
道祖神(塞之神)
この板状の石を屋根にした小社は、塞之神(さえのかみ)をかねた道祖神である。山中の南の入口に鎮座され、南からの邪神、疫病の入りくるのをさえぎり、また「蟻の熊野詣」の時代から数多くの旅人の道中の安全を守ってこられた。江戸時代紀州藩では、毎年12月20日に犯罪者や悪疫の病人を、境橋(当地区の南、和歌山県との県境)より和泉の国に追放した。当地では、「はての20日のろうばらい」といって戸を仕め切り悪疫の退散を願った。当時山中では被害が少なかったのは、塞之神のおかげであったといわれている。
  

  

   

参考資料
  
近畿日本鉄道 http://www.kintetsu.co.jp/
JR西日本   http://www.westjr.co.jp/
京阪電鉄 http://www.keihan.co.jp/
南海電鉄 http://www.nankai.co.jp/index.html
   
   
近鉄乗車券  宇治山田-鶴橋 1750円
近鉄特急券 宇治山田-鶴橋 1280円
JR乗車券 鶴橋-信太山 380円
JR乗車券 山中渓-鶴橋 780円
南海本線乗車券 井原里-岸和田 200円
ステーションホテルみやこ
〒596-0054 大阪府岸和田市宮本町17-20
TEL 0724-23-7772
シングル 食事なし  6500円 (ネット予約)