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JR岩代駅---千里王子神社---三鍋王子社---鹿島神社---芳養王子社(大神社)---出立王子---JR紀伊田辺駅
  
2008年4月28日 29日  晴れ
新緑薫る4月末、紀伊路の最終章、岩代から田辺までを今回は歩く。これで紀伊路は途中の布施屋から海南までを残すのみとなる。
前日、12時47分に近鉄宇治山田駅を出発。鶴橋14時37分着、大阪環状線に乗り換えて、JR天王寺15時20分のくろしおで16時42分に御坊に着いた。宿泊は駅から徒歩で5分ぐらいのビジネスホテル紀の国(写真)。
翌朝、7時8分御坊発普通列車で、岩代駅まで行き、7時40分頃から歩き始めた(写真)。昔は岩代王子から海岸を通って千里王子まで行ったらしいが、現在は砂浜が痩せたため、通行不能で内陸部を歩くことになっている。集落を通り、畑の横の坂道を登って梅林を見て、道標に従い地道の山道を通り(写真)、ガードをくぐると海に出た(写真)(8:24)。ここが枕草子や伊勢物語に記された景勝地、千里浜だ。砂浜を少し行くと左に千里王子神社があった。室町時代には「貝の王子」ともいわれ、浜辺で拾った貝を王子社に奉納していた。王子神社の横の石仏が並ぶ千里観音の参道を登り、境内を通って道標に従い(写真)JRのガード下を二度くぐり、梅林の間の道を通り(ちょっとわかりにくいところもあるが)南部峠の石仏に向かった。石仏のところを左折し(写真)(8:59)、しばし山道を進みJRのガード下、次に国道のガード下をくぐって42号線に沿って行くと、紀州梅干館の大きな建物が見えた(9:10)。ここで一休憩して南部大橋を渡って左折(9:28)。住宅地の中を通って左に丹川地蔵尊を見て(写真)(9:45)、三鍋王子社に向かった(9:47)。境内には小栗判官が水を飲んだと伝わる小栗井戸の行桁が残っていた。次いで南部の町を通り、JR南部駅を左に見て(写真)(10:00)、南部高校の先を右折。そして次を左折すると鹿島神社に出た(9:47)。三鍋王子が一時、合祀されていたことから、旧三鍋王子の社殿が本殿になっている。ここから古道はほぼ国道42号線と平行して進む。井原隧道、井原観音(写真)(11:01)を過ぎて、芳養川を松井橋で渡って、信号で右折して国道を渡ると右に石垣の上に林が見えた。ここが芳養王子社(大神社)だ(11:13)。ちょうどいいベンチが境内にあってゆっくりできた。ここで昼食を半分食べ、芳養の集落を通って進んだ。和歌山から18里の芳養一里塚(写真)(11:33)、続いて牛の鼻を通って(写真)(11:38)、市民球場前を右折して天神崎経由で進んだ。かんぽの宿(12:05)、目良漁港(12:12)を過ぎて半島の先に進んだ。天神崎は日本のナショナルトラスト発祥の地とのことで、自然の海辺の景色を眺めながら、海辺の岩に降りて残りの昼食を食べた(12:19)。周囲では釣り人が夢中になって竿をたらしていた。数人がドライスーツでスキューバダイビングをしていた。クルーザーがいっぱい止まっているシータイガー田辺マリーナの横を通り(12:41)、半島をぐるりと回って江川児童公園内にある塩垢離浜旧跡の石碑についた(13:02)。古道は田辺から山の中に道をとるので、ここが最後の塩垢離場だった。この先会津川近くの浄恩寺手前の角を入ると出立王子跡に来た(13:12)。ここから坂を登り、八幡・出立・稲荷三社を合祀してある八立稲神社を訪れ(13:24)、坂を下って旧会津橋を渡って田辺市内に入った。本町道標(写真)(13:40)、道分け道標(中辺路と大辺路の分岐点)を通って(写真)(13:46)JR紀伊田辺駅に到着(写真)(13:55)。
今回歩いた古道は梅の里を通り、梅花の咲く頃ならさぞかしいい香りの中の古道歩きとなったことだろう。天気は最高で、アップダウンもなく、楽しく比較的楽な行程だった。次回で紀伊路が終了すると思うと待ち遠しい。

 

案内板の説明
      
千里王子神社
祭神 倉稻魂命または彦火火出見尊
由緒   桓武天皇の延暦年間に創建されたと伝わる。 貝を拾って供える風習があった。貝の王子と呼ばれたと言う。貝は身が滅んでも美しい姿を残すことから延命長寿の呪力を持つとされた。
南部川村の須賀神社の境外社になっている。
       
古代から近世にかけて花山法皇や後鳥羽上皇、紀伊藩主、田辺領主が参詣された王子社。
現在の本殿は安永5年(1776年)に再建されたもので、熊野九十九王子社の本殿の中でも、切目(きりめ)、三鍋(みなべ)王子社と共に古い建造物です。(県指定史跡)
千里王子
千里の浜は、『枕草子』に「千里の浜、ひろうおもひやらる」と書かれているほか、『伊勢物語』『大鏡』『保元物語』など、多くの文学作品に登場する景勝地です。『大鏡』には、花山天皇が熊野参詣の途中、千里の浜で病気になり、海岸の石を枕にしてお寝みになった、という逸話を載せています。確かな記録では、天仁2年(1109)10月21日、藤原宗忠が昼食のついでに、海水を浴びて塩垢離をしています。千里王子の初見は、藤原定家が後鳥羽上皇の参詣に随行した時の日記で、建仁元年(1201)10月12日に参拝しています。なお、定家は、その後、近露(現・・中辺路町)で行われた歌会で、「くもきゆるちさとのはまの月かげはそらにしぐれてふらねしらゆき」という、千里の浜にちなんだ歌を詠んでいます。また、承元4年(1210)、修明門院の参詣に随行した藤原頼資も、4月27日に千里王子に参詣しています。この王子社は、室町時代には「貝の王子」とも呼ばれたようで、応永34年(1427)、足利義満の側室・北野殿の参詣の際には、浜辺で拾った貝を、王子社に奉納しています。江戸時代には、紀州藩主徳川頼宣が、寛文4年(1664)に拝殿を建立して復興に尽くしました。明治時代には、千里王子神社となり、その後、須賀神社(南部川村)に合祀されましたが、安永5年(1776)建立の本殿は残されました。この社殿は、建築年代の確かな王子社として貴重です。
南部峠の石造地蔵菩薩像 みなべ町指定文化財

南部峠(地蔵峠)は、古代から明治時代に至るまでの約千年間、人々が往来した峠である。右大臣藤原宗忠の『中右記』(1109)に「南陪山を越へ」と、1405(往年12)年の『国阿上人絵伝』なは「見那辺峠という難所を過ぎて」と記している峠である。この峠は交通の要所であったので、古い時代から地蔵堂や茶屋が建てられたと推定されるが、文献上の初見は寛文から元禄時代に書かれた『紀南郷導記』である。地蔵菩薩像は高さ31cmの台座の上に像高50cmの石造坐像が安置されている。造像年代は室町時代と推定され、骨折に霊験顕かで「骨つぎ地蔵」と称されている。

  2007(平成19)年1月    みなべ町教育委員会

   
丹川地蔵尊(にんが)
享保10年(1725)、田辺領記によると、往古より、子安地蔵延命地蔵としてそのご霊験あらたかで三鍋王子社前の熊野街道に面して祀られ参詣者も多く有名であった。今も「丹川のお地蔵さん」と呼称され、住民の信仰はあつい。この度、老朽化した本堂を再建、区内外各位のご高志により落慶ここに末永くお祀りする。

平成7年12月23日 北道区

梅の里 熊野古道
南部町は、町内各地から縄文中期以後の遺物が多数発見されています。とりわけ、古墳時代からの大規模な土器製塩遺跡があり、その塩は平城京に調塩として送られていました。南部庄は平安時代から、皇族から高野山領になった庄園で多くの文書が残されています。このような関係からか、当時建立された王子社には数々の由緒があり、また古道の中では唯一、白砂青松の海辺を喜々として熊野へ向かったところです。特に近年では、梅花の咲き香るころに梅花を鑑賞しながらの散策の道として好評です。文献上では、有間皇子が謀反の罪で紀温湯に護送される途次、岩代の地で詠んだ和歌は往来する人々に深い同情を与えました。
  盤代の浜松が枝を引きむすび
      真辛くあらばまた返り見む
   
三鍋王子社
この王子社は、『中右記』天仁2年(1109)10月21日条に「南陪山を越え、王子社に奉幣」と書かれているのが初見です。『中右記』は藤原宗忠の日記です。藤原定家は、承元4年(1210)に熊野に参詣し、いずれも三鍋王子に参拝しています。vはこの年、2回熊野に参詣しました。1回目は、修明門院に随行し、2回目は個人的に参詣したのです。この2回目の時、三鍋王子で奉幣の儀式の際に、まどろみ、夢の中に熊野権現が現われたと日記に記しています。近世には、王子権現社と呼ばれ、南部三社の一つとして、村民により立派な社殿が建立されましたが、明治時代の神社合祀で、現在の鹿島神社に合祀された際、本殿もこの鹿島神社に移され跡地には小祠が建立されています。
  
鹿島神社
祭神 武甕槌大神、天照皇大神、須佐男大神、譽田別大神
由緒 現代の鎮座地は海中島に鎮座する鹿島の元本社の明治初年前までの遥拝所であった。 海中島元社の創始は不詳であるが、大宝元年(707)以後、太上天皇、文武天皇、持統天皇の紀伊国行幸の際当地方をうたわれている13首の御製中に詠われ、 当時から鹿島大明神として鎮座されていたものと思われる。
 吾[あ]が欲りし子島[こしま]は見しを底深き阿胡根[あこね]の浦の玉ぞ拾[ひり]はぬ (巻一 一二)
 南部[みなべ]の浦潮な満ちそね鹿島[かじま]なる釣する海人[あま]を見て帰り来む(巻九 一六六九)
祭り   明神祭 5月3日 花火祭8月1日 例祭10月15日  
芳養王子社跡
熊野三山参詣街道に祭祀された九十九王子社の一社、當芳養王子社は建仁元年(1201)10月12日、後鳥羽上皇が熊野参拝の途次、当社に奉幣の使を派遣したこと『御幸記』に見え由緒は古い。爾後、下芳養荘の産土神として当地方の敬信を永く集めていたことも紀伊続風土記に記されている。明治4年の神社合祀により現在の大神社として合祀され今日に至っている。田辺市内の五王子社跡の一つとして有名な遺跡である。

   昭和46年  

和歌山県教育委員会
田辺市教育委員会
芳養大神社
  
熊野道
熊野は元来神霊のこもる聖地とみられたところで、ここにやがて熊野三山と呼ばれる本宮・速玉・那智の三社が成立し、信仰を集めました。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、上皇、女院をはじめ、貴族や武家の熊野参詣が盛んになり、やがて一般庶民にも広がっていきました。その参詣路は、京都から淀川を舟で下り、摂津(大阪)の窪津から陸路を南にとって紀伊国に入り、主に海辺のルートを田辺に来て、田辺からは三栖の山越えに岩田の方へ出て、富田川沿いに本宮に向かいました。その沿道の各所に、九十九王子と呼ばれる熊野の神を分祀した社が設けられ、田辺市内には、芳養・出立・秋津・万呂・三栖の五王子がみられました。しかし、南北朝時代には、それなでの富田川沿いにのぼるルートが、三栖から潮見峠を越える経路に変わり、この中辺路の道が明治になるまで専ら利用されました。
   
塩垢離浜跡
かつてこの付近一帯が出立浜と呼ばれ、ここは熊野に参詣する人びとが塩垢離をとった浜として知られています。塩垢離とは、浜で海水を浴び、けがれをはらう儀式のことです。これまで海辺をたどってきた熊野への道は、ここから中辺路と呼ばれる山中のルートに入るため、この浜での塩垢離は重要なものとされました。建仁元年(1201)後鳥羽上皇の熊野詣に随行した歌人藤原定家は、前日から体の調子が良くなかったにもかかわらず、先達の強い指示で塩垢離をとったと記録しており、この浜での塩垢離の重要さがうかがわれます。

平成2年      文化庁・和歌山県・田辺市

  
出立王子跡
元、若一王子社とも云う。紀伊続風土記に若一王子社村の氏神なり。御幸記に、出立王子とあるのは、当社なり。古は拝殿、回廊等ありとも、天正の兵乱に悉く、破損せしも、後復興すると傳え云う。崇峻天皇元年御勧請なりと、月読尊を祭祀し、出立王子と称し、明治6年5月、出立神社と改め村社に列せんが、同40年2月1日、八立稲神社に合祀せられて廃社となり、今は「出立神社跡」の一基の石碑を残すにすぎず、かかる由緒さる所なれば、永く保存すべきと認む依って、大正14年7月17日、和歌山県文化財に指定引き続き、昭和33年4月1日再指定を受く。
  
出立王子跡 県指定史跡
出立王子は熊野九十九王子社のひとつで、田部王子とも呼ばれました。古くから熊野参詣の人びとの信仰を集め、例えば藤原宗忠の日記『中右記』には、天仁2年(1109)の熊野詣の途中、宗忠一行がここへ参拝したことが記されています。熊野参詣の道はこれより中辺路と呼ばれる山沿いのコースをたどり本宮へと向かいます。
  

道分け道標

道標に刻まれている文字
 (西側) 左り くまの道 すくハ大へち
 (北側) 右きみゐ寺
 (東側) 安政四年 丁己秋再建之 大阪西横堀炭問屋 石工 見かげや新三郎
ここは、近世の中辺路と大辺路の分岐点で、西から進んできた場合は、「左 くまの道」に従って中辺路(万呂・三栖方面)へ、小さい字で「すくハ大辺路」とあるのは、直進すれば大辺路(礫山・新庄方面)へ続くことを示しています。北からやって来ると「右きみゐ寺」に従い、和歌山方面へ進むことになります。

田辺市観光協会

 

参考資料
  
近畿日本鉄道 http://www.kintetsu.co.jp/
JR西日本   http://www.westjr.co.jp/
   
   
近鉄乗車券  宇治山田-鶴橋 1750円
近鉄特急券 宇治山田-鶴橋 1280円
JR乗車券 鶴橋-切目 2210円
JR乗車券 切目-岩代 180円
JR乗車券 紀伊田辺-鶴橋 2520円
JR特急券 天王寺-御坊(自由席) 1360円
JR特急券 紀伊田辺-天王寺(自由席) 1680円
   
ビジネスホテル紀の国
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