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JR海南駅---祓戸王子跡---藤代王子社---藤白坂---藤白塔下王子跡---橘本王子跡---所坂王子跡
---一壺王子跡---拝ノ峠---蕪坂塔下王子跡---山口王子跡---糸我王子社---糸我峠---逆川王子社
---方津戸峠---JR湯浅駅
2008年2月23日 24日 曇、雪
   
先週に引き続き2月の寒い日、雪、みぞれの中をJR海南からJR湯浅駅まで、祓戸、藤代、藤白塔下、橘本、所坂、一壺、蕪坂塔下、山口、糸我、逆川各王子跡を訪ねながら歩いた。
前日、12時47分に近鉄宇治山田駅を出発。鶴橋14時37分着。大阪環状線に乗り換えて、JR天王寺経由で、快速で日根野乗換え、16時16分に和歌山に着いた。その日は駅前のホテルグランヴィア和歌山に宿泊。隣には近鉄百貨店があり、古道歩き中にしては久しぶりに都会で宿泊できた。夜はホテルでフレンチを食べてゆっくりした。
翌24日は7時20分和歌山発の普通列車で海南まで行った。列車の窓が昔ながらの下から開けられる窓だったので、懐かしくつい写真を撮ってしまった(写真)。そういえばこんな窓ずっと見たことがなかった。海南には7時35分に到着(写真)。ここから南に向かって歩き始めた(7:40)。道は左折したり、右折したりするが、道標がしっかりしているので迷うこともなく、海南の趣のある町並みを通り(写真)、7時58分熊野一ノ鳥居跡に着いた(写真)。このT字路を右折して古道に入って行く。ここから少し行くと祓戸王子跡に続く道入り口が左手にある。古道を外れてこの道をさらに行くと右手に案内板があり、山道を登っていく(8:03)(写真)。道に石仏群が並ぶ中を進むと祓戸王子跡の大きな石碑があった(8:10)。この上には近代の墓地があり、ここから海南の町が遠望できた。でももうすでにちらちらとみぞれ交じりの雪が降ってきていた。もとの古道までもどり、先を進んだ。道沿いには軒下に古道の提灯が下げられていてよくわかるようになっていた(写真)。全国鈴木姓の総本家「鈴木屋敷」を見学して(8:28)(写真)、藤代王子社を祀る藤白神社に着いた(8:33)。藤代王子社は九十九王子の中でも格式の高い五体王子の一つらしい。神社横の古道提灯がさがっている道を行くと、右側に有間皇子の墓(8:38)、その隣に藤白坂の丁石地蔵の由来を書いた案内板があった。江戸時代、海南の全長上人が距離を示すとともに、往来の安全を祈って地蔵尊を坂に一丁おきに置いたそうだ。ここからいよいよ登り坂。地道の登り坂で、入り口付近には石畳も残っていた。雪が時には降りしきり、風も激しくなってきた。竹林の竹が風にしなってぶつかり合い、異様な音を出している。なんだか薄気味悪い。でもそれにもしだいに慣れ、どんどん坂道を登っていった。途中の丁石では立ち止まって写真を撮っていったので、結構時間がかかった。地蔵はそれぞれに形、大きさが違い、あるところは一体、あるところは数体並んでいた。筆捨松跡を過ぎ、硯石に来た(9:22)。このあたりで十四丁石。十八丁石を過ぎると石造宝篋印塔があり(9:38)(写真)、その向こうが地蔵峰寺(9:39)。この境内に藤白塔下王子跡があった。止まっていると寒いので休憩もそこそこに先を急いだ。みかん畑の中の細い道を下り、橘本の集落に入った。道標にしたがって古道を逸れて右左折しながら道を行くと福勝寺に出た。ここにの境内に橘本王子跡の石碑があり、温州蜜柑の原種とされる橘の樹が植えられていた。道を戻って古道に出て加茂川に橘本土橋を渡った(写真)。昔はここに土橋があり、今はその跡を示す石碑が建てられていた(10:30)。橋を渡って左に道をとり加茂川に沿って下津の集落を行くと右手に橘本神社があり、この境内に所坂王子跡の石碑があった(10:40)。さらに川に沿って歩き、一壺王子跡がある山路王子神社に着いた(11:02)。これから蕪坂を登り、拝ノ峠に向かうのでこのあたりで昼食を食べようと境内で弁当をひろげた。泣き相撲の土俵のちょうど前で弁当をひろげたのだが、寒さは一段と厳しくなり、弁当の中に雪がパラパラ舞ってきて、なんとも惨めになってきた。腹ごしらえをして少し元気が出たところで次の峠、拝ノ峠に向かった。途中、沓掛の松、弘法井戸、爪書地蔵の説明板のある沓掛児童会館で一休憩をして(11:49)、蕪坂を登った。途中下津港が眼下に見下ろせる展望のいいところもあったが、雪が舞っているなかでは今一。蕪坂塔下王子跡を過ぎると下りになり(12:35)、太刀の宮(12:42)、爪書地蔵(12:55)(写真)を通って山口王子跡に出た(13:18)。宮原に出ると行き倒れの巡礼者らを祀った伏原の墓があった(13:36)(写真)。この頃には雪も止みやれやれと宮原の古道ふれあい広場でティータイム(13:53)。雪はやんだが風が強くなってきた。宮原橋で有田川を渡る時は、突風のため思わずしゃがみこんで欄干をつかんでしまうこともあるほどだった(14:25)。有田川は昔は宮原の渡し場から船で渡ったとのこと。国道42号線を横切って次は糸我に向かった。途中、中将姫ゆかりの得生寺に立ち寄り(写真)、糸我稲荷神社に着いた(14:44)(写真)。境内にはりっぱな大楠の樹があった。となりにくまの古道歴史資料館があり、ゆっくり休憩できそうだったが、帰りの列車に乗り遅れては先を急いだ。糸我王子社を過ぎ(14:56)、坂を登って今日最後の峠越え、糸我峠に進んだ。この頃には再び雪が降り始めたが、もうここまで来たら先に行くしかないと思い、雪の中、峠に向かった。雪の中に何と桜が咲いているではないか(写真)。先日の陽気で咲く時期を間違えたのか、ここの桜は種類が違って早咲きなのか?それにしても「雪の中に咲く桜とはなかなかおつなもの」と気を取り直して歩いた。りっぱな東屋が見え、中に木を切りに来た人が休んでいた。一言二言、言葉を交わして時間ないので先へと急いだ(15:17)。東屋の裏の急な地道な坂を登ると糸我峠茶屋跡が見えた(15:22)(写真)。その向こうからは今日の最終地、湯浅の町が見えた。ここからは下りで、夜泣松、吉川憩いの家を通って坂を下ったところを右折すると逆川神社があり、ここには逆川王子社がある(15:46)。逆川の由来は近くを流れる吉川が、海と逆の方向へ流れているからだという。後白河法皇が腰掛けたとの伝説がある腰掛岩の跡(写真)、弘法井戸を過ぎて(写真)、方津戸峠を越える(15:58)と湯浅の町に入って行く。法務局、税務署などが並ぶ湯浅の官庁街を通って、山田川にかかる北栄橋を渡ると古い町並みに入って行く。ここの古道休憩所休憩(16:36)。走れば16時26分の列車に間に合うかもと考えていたが、湯浅の町に入ってから結構時間がかかったので途中であきらめて、列車を一時間遅らすことにした。この休憩所で色々資料を見て、醤油発祥の地、湯浅の散策をすることにした。立石の道標から再び橋の方にもどり、醤油造りの元祖、角長などの古い家並みを見て、JR湯浅駅に着いたら、17時7分だった(写真)。日も陰り寒さが身にしみてきた。17時26分発、普通列車で海南まで行き、ここで40分くらい待って、くろしお32号で天王寺まで。環状線で鶴橋に行き、乗り換えて近鉄で宇治山田駅に着いたのは21時41分だった。
先週に引き続き雪、みぞれの中、大変な古道歩きだったが、無事歩き終えた。

 

案内板の説明
  
  
熊野一の鳥居跡
ここは、熊野古道(小栗街道)と近世の熊野街道との合流点にあたります。『紀伊続風土記』に熊野一の鳥居があったこと、地名「鳥居」の由来もこれによると記されています。鳥居のすぐそばに「祓戸王子(鳥居王子)」があり、そこで垢離をとり心身を清め、熊野聖域へと入って行ったのでした。この鳥居は、天文18年(1549)には損失されたと前記文献に記されています。また現在、藤白神社の二の鳥居の傍らに「熊野一の鳥居」と刻まれた石碑も残っています。

  平成11年3月1日   海南市教育委員会

  
史跡 祓戸王子跡
昭和33年4月指定
祓戸王子は熊野九十九王子のひとつで熊野詣での人びとの遥拝所、または休憩所でした。この場所より、北へ110メートルのさきに「祓戸神社々跡」という石碑が建っているところが王子跡になります。祓戸王子は明治42年(1909)藤白神社に合祀されました。しかし、むかしの祓戸王子は、日限地蔵から熊野古道を西に進み、すぐ左へ曲がるあたり山のふもとにあったと、地元のひとたちは伝えています。

  和歌山県教育委員会   海南市教育委員会

  
史跡 祓戸王子跡
ここ祓戸王子は、熊野本宮大社の手前にも「祓戸王子」があるように、熊野への入口として垢離をとって、心身を清める場所でした。当時は、藤白神社の大楠、藤白坂の筆捨松や藤白峠が一望できるひとつのポイントであったといわれています。祓戸王子の下の三叉路は、熊野古道と近世の熊野街道の交差するところで、熊野一の鳥居跡を記す石碑があり、そこから「祓戸王子」への登り道があったといわれています。

                  平成8年12月1日

和歌山県教育委員会   海南市教育委員会
   
小栗街道
雄ノ山峠を越えて熊野へ参詣する熊野古道を小栗街道とも呼んでいます。小栗街道といわれるのは、不治の病にかかった小栗判官が、照手姫の土車に引かれて熊野権現の霊験を求め、熊野を目ざしてこの道を通ったためです。判官は熊野本宮に参詣し湯ノ峰の湯を浴びてすっかり元気になり、照手姫と結ばれました。判官は、後に、畿内5か国(大和・山城・河内・和泉・摂津)と美濃(岐阜県南部)を賜りました。この話は、説教節や和讃、浄瑠璃などに脚色され伝えられています。

  平成8年12月1日  海南市教育委員会

   
鈴木屋敷
ここは、鈴木姓の元祖とされる藤白の鈴木氏が住んでいた所です。平安末期ごろ、上皇や法皇の熊野参詣がさかんとなり、熊野の鈴木氏が、この地に移り住んで、熊野三山への案内役をつとめたり、この地を拠点として熊野信仰の普及につとめていました。まかでも、鈴木三郎重家や亀井六郎重清は有名で、源義経の家来として衣川館で戦死を遂げたと伝えられています。また、重家・重清らが幼少の頃、牛若丸(源義経の幼名)が熊野往還には必ずこの屋敷に滞在し、山野に遊んだとも伝えられています。
平成16年10月  海南市教育委員会
  
史跡 藤白王子跡
この藤白王子社(現藤白神社)は平安時代から盛んに行われた熊野詣での礼拝所で、熊野九十九王子のうち五躰王子の一つとして特に格式の高かった神社である。中世の熊野御幸の際には当社を御宿泊とせられ、法楽のために御歌会、相撲会等が催された。特に藤原定家の「熊野御幸記」に記載されている建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇が催された藤白王子和歌会が有名で、その時の「熊野懐紙」御宸翰は国宝となっている。
     深山紅葉
うばたまの よるのにしきを たつたひめ
たれみやまぎと 一人そめけむ
白藤の下に歌碑があり、傍らに「御歌塚」がある。また、神社の「本殿」「藤白の獅子舞」「本堂の熊野三所権現本地仏三軀」「藤代王子」の本地仏も和歌山県指定の文化財である。

     平成17年5月31日

和歌山県教育委員会   海南市教育委員会  藤白神社

    
有間皇子神社由緒
今から千三百数十年前、孝徳天皇の皇子であった有間皇子に皇位継承を巡る複雑な争いの中で、十九才の若さで散っていった悲運な方です。政敵であった中大兄皇子が蘇我赤兄をさそい有間皇子に天皇に謀叛をすることをすすめました。うまくわなにかかった皇子はその釈明のため牟娄(白浜)の温泉にいる斉明天皇のところに参り、その帰路この藤白坂で絞殺されてしまったのです。途中で皇子の詠まれた
 ”家にあら(れ)ば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る”
 ”磐代の浜 松が枝を引き結び 真幸くあらば また還り見む”
の二首が万葉集にのせられていますが絶唱としてひとびとの涙をさそいます。ここから200メートル西の藤白坂の上り口に、皇子の墓と佐佐木信綱博士揮毫の歌碑がありますが、有間皇子神社はその御魂をお祀りしております。境内の歌碑(雑賀紀光筆)と、歌曲碑(打垣内正曲)の
 ”藤白の み坂を越ゆと 白たへの わが衣手は ぬれたけるかも”
の歌はそれから43年後、持統、文武 紀の温泉行幸の途次、お伴の人が皇子への同情と追慕から詠んだもので、これも万葉集にのせられています。
  
有間皇子史跡
有間皇子は、孝徳天皇の皇子です。斉明4年(658)11月に、謀反の疑いで捕らえられ、牟婁の湯(白浜の湯崎温泉)に行幸中の天皇のもとへ護送されました。中大兄皇子の尋問を受け、その帰り道に、この藤白坂で絞殺されました。皇子は十九歳の若さであったと伝えられています。皇子が護送途中、自らの運命を悲しんで詠んだ板が二首あり、そのうち一首が、ここの歌碑に佐々木信綱博士の筆で刻まれています。
『家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る』

平成8年12月1日  海南市教育委員会

   
藤白坂の丁石地蔵
全長上人は、海南市名高の専念寺第14世の住職で、禄年中(1688〜1704)専念寺に入り、延享4年(1744)に入寂した学徳にすぐれた高僧でした。全長上人は、藤白坂の距離を明確にするとともに、憩いの場所とし道中の安全を祈願するためにと、17体の地蔵を一丁ごとに安置されました。当時藤白坂にはかご屋がいて、足腰の弱い人はかごを利用して峠越えをしたものです。これによって、旅人は楽しい道中ができ、かご屋も十分な賃金を得ることができたと言われています。いつの頃からか藤白坂のかご屋もなくなり、以来250年余りの長い間に、丁石地蔵は谷に落ちたり地に埋もれたりして消え、昭和56年に現存するものはわずかに四体に過ぎませんでした。その後、新しい地蔵を加えて、十七体が復元されました。この「丁石地蔵」は当時(享保の初め頃)のものであり、「丁石」としては全国的にも珍しく、貴重な存在です。

平成8年12月1日  海南市教育委員会

   
熊野古道
熊野古道は、文字どおり熊野三山へ通ずる信仰の道として大きな意義をもっていました。今から約九百年前の院政時代から、とみに上皇・法皇をはじめ貴族の人々の信仰が高まり、中世になると、それが武士や庶民の階層にまで広まっていきました。蟻の熊野詣と形容された参詣者の列ができた紀伊路のコースは、藤原定家が建仁元年(1201)に著わした「熊野道之間愚記」で克明に伝えられています。遥拝所として道中に設けられていた王子社も、その跡地が現存したり、伝えられたりしており、市内では松坂王子社、松代王子社、菩提房王子社、祓戸王子社、藤代王子社(藤白神社)の五ヶ所が確認されています。特に藤代王子は、熊野五体王子の一つであり、定家の記録によっても藤代の地が院の一行の宿泊所となっていたことがうかがわれます。御歌会や相撲の奉納も行なわれたりしました。熊野古道は、別名小栗街道とも呼ばれ、小栗判官腰掛石や四ツ石などの史跡も残されています。熊野古道は、このあたりからさらに急峻な坂道(藤代坂)となり、坂を登り切った所には搭下王子(地蔵王子)があります。

   昭和61年3月  海南市教育委員会

   
筆捨松由来記
「投げ松」

第34代舒明天皇(西暦635)は、熊野へ行幸の途次藤白峠で王法の隆昌を祈念し小松にしるしをつけ谷底へ投げられた。帰路小松が根づいていたので吉兆であると喜ばれた。以来「投げ松」と呼ばれていた。

「筆捨松」

平安前期の仁和年間(西暦885〜888)の頃絵師巨勢金岡は、熊野詣での途次藤白坂で童子と出会い競画することとなり金岡は松に鶯を、童子は松に烏を描いた。次に金岡は童子の絵の烏を、童子は金岡の絵の鶯を手を打って追うと両方とも飛んでいった。こんどは童子が烏を呼ぶと何処からか飛んできて絵の中におさまった。しかし金岡の鶯は遂に帰らなかった。「無念!」と筆を投げ捨てた。筆は「投げ松」の所へ落ちた。以来「筆捨松」と呼ばれてきた。童子は熊野権現の化身であったといわれている。

「郷土史より」

平成15年11年3日    寄贈 海南ロータリークラブ

  
遺跡「硯石」
”蘇る徳川400年の遺跡”
熊野古道 伝承遺跡「筆捨松」にちなみ紀州徳川家初代藩主頼宣公の命により後に自然の大石に硯の形を彫らせたと伝えられる。『名高浦四囲廻見』より
かつては、筆捨松の大木の根元に立っていたこの硯石が昭和58年の水害で土砂と共に押し流されうつぶせにうずもれていた。このたびこの場所で確認の上、掘り起こしその姿を復元する。 (重さ約10屯)

   平成15年11月3日    熊野古道藤白坂顕彰会 

  
地蔵峰寺本堂(昭和49年5月31日重要文化財指定)    石造地蔵菩薩座像(大正6年4月5日重要文化財指定)
地蔵峰寺は海南市下津町橘本に所在し、熊野古道の藤白峠をこえた標高291mの高所にある。本堂は、桁行7、6m、梁間8、0m、寄棟造本葺で、室町時代中期頃の建立と考えられている。禅宗様式の濃厚な優れた建築技法を示している。昭和51年から昭和53年にかけて解体修理が行われ、建立当初の姿に復された。本堂の石造地蔵菩薩坐像は、総高3、1m余の大きな地蔵尊で、光背の銘には「元亨3年大工薩摩権守行経」とある。製作の優秀さ、雄渾な銘大きさなど日本有数の石造地蔵菩薩である。

 海南市教育委員会   地蔵峰寺

   
橘本王子跡
藤原定家や藤原頼資等の日記に、「橘本王子」と書かれているのが、この王子です。定家や頼資の熊野参詣より100年前の天仁2年(1109)11月6日、藤原宗忠は熊野参詣の帰り道に、橘本王子社の前から、塩津付近に向かい、海を渡って、和歌浦・吹上浜を見物したと、日記に書いています。江戸時代には「橘本王子」と書きましたが、『紀伊続風土記』によると、王子は村の北にあって、土地の人は「本」の字を略して、橘の王子と呼び、また、白河法皇が参詣の時に、この王子社に通夜して「橘の本に一夜の旅寝し入佐の山の月をみるかな」という歌を詠んだと伝えています。現在はこの阿弥陀寺の境内に、その跡をとどめるのみですが、室町時代の永享9年(1437)王子社の社殿を造営し、江戸時代の貞享4年(1687)に屋根を葺き替えたという棟札が残されています。『古事記』『日本書紀』垂仁天皇の時代に、田道間守が常世の国から橘の木(トキジキノカクノコノミ=非時の香菓)を持ち帰ったという伝説がみえ、それをこの地に植えたという言い伝えに橘下王子のいわれがあります。橘を温州蜜柑の原種とする説に基づき、この地は紀州蜜柑発祥の地ともされています。
   
橘本王子跡 
「中右記」(右大臣宗忠の日記で天仁2年ー1109ーの項)に橘本(たちばなもと)とあり、むかしからこの王子社の境内に橘の木があり、明治20年(1887)頃は根元に空洞があり樹齢300年余といわれた。後白河法皇が熊野御幸の折りこの王子で一夜を過ごされたとき「橘の本に一夜の仮寝して 入佐の山の月をみるかな」と詠まれたと言われている。王子の南加茂川をへだててそびえる鉢伏山を入佐山と称した。阿弥陀寺は以前丈六山宝蔵院といい真言宗であったが、慶長3年(1598)浄土宗として再建された。王子社のものと思われる元禄元年(1688)の銘のある鰐口と、永享9年(1437)の棟札が残っている。
  
橘の樹
みかん科の常緑樹で初夏の候白色五弁の小花を開き馥郁たる香気を放つ「記紀によれば垂仁天皇の御代に「田道間守」公は「常世の国」より「非時の香菓」即ち「橘」を持ち帰りて我国に伝わると言う(西暦71年)その「橘」を最初に移植した六本樹の丘と称するはこの地である桓武天皇延暦年間より桜と共に神樹として植られ「左近の桜右近の橘」と併称せられるは普く人の知る所である「橘」は古来歌に詠まれ文に作られたるものが甚だ多い。

”さつき待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする” (古今集)

  

橘本土橋跡
峠の道を下りきったところに加茂川がながれていて、ここに土橋がかかっていた。紀伊国名所図会にはこの土橋付近には家が立ち並び、駕籠で旅する人、すげ笠を持っている人、親子づれ、武士などいろんな人が通っている。北側にはお地蔵さん、南側には三界萬霊碑(寛政5年1793)があり交通の要衝であった。ここから一壺王子にかけて馬を用立てする伝馬所や旅籠が軒を連ねていたものと思われる。また、熊野詣での帰途藤白坂はあまりにも険しいのでここから加茂川に沿って下り、舟の津(いまの塩津)から船で和歌山浦に到る通路のことが天仁2年(1109)の中御門右大臣宗忠の旅行日記「中右記」に記されている。
  
所坂王子社跡
この王子社を、藤原定家は「トコロ坂」、藤原頼資は「薢坂」と日記に記しています。薢は植物の野老(ところ)のことです。この付近に野老が多く自生していたことから、王子の名が付けられたようです。『紀伊続風土記』では、「ところ」の字を当て、所坂王子社と呼んでいます。この王子社は、明治時代に塔下王子社・橘本王子社を合祀し、橘本神社(現橘本神社)となりました。そして、橘本王子の由来である田道間守を主神として祀っています。神社合祀で廃絶していく王子社の中で、神社となった一例がこの所坂王子です。田道間守は常世の国から橘の木を持ち帰り、この地に日本で最初に植えたと伝えられています。その実が、日本で最初のみかんとなり、菓子となったことから、橘本神社は、みかんとお菓子の神さまとして、全国のみかん・菓子業者から崇められています。

   

所坂王子跡

橘本から市坪へかかる坂を「ところ坂」という。昔、このあたりに「草蘇」(ところ)が自生していたので、この名がある。現在は明治40年(1907)神社合祀令にとって塔下王子社、橘本王子社をあわせて橘本神社として合祀している。御祭神の田道間守命(たぢまもりのみこと)は、第11代・垂仁天皇の御世に常世の国に渡り、「橘」(たちばな・現在のミカンの原種)を持ち帰り、天皇に献上した。その橘がこの地に日本で最初に植えられたと伝えられている。その昔、橘(果物)の実で最初にお菓子がつくられたといわれていることから、みかんと菓子の神様として、全国のみかん・菓子商人から崇敬されている。
   
一壺王子跡
藤原定家が後鳥羽上皇の参詣に随行した時の日記に「一壺王子」、藤原頼資が修明門院の参詣に随行した日記に「一坪王子」とみえるのが、この王子社です。また、頼資が後鳥羽上皇と修明門院の両院御幸に随行した、建保5年(1217)の日記によれば、10月4日、この「一壺」に小屋形が作られ、両院は昼食をとっています。この王子社は、江戸時代には市坪(一坪)王子、山路王子社あるいは沓掛王子社と呼ばれています。ここから、蕉坂峠に向かう急坂となるため、山路・沓掛などとも呼ばれたのでしょう。また、江戸時代には、この王子社は市坪・大窪・沓掛三か村の三土神でした。そのため明治時代以降も神社として残り、沓掛村の里神八王子社等を合祀しています。現在は山路王子神社となっていますが、かつては安養寺という別当寺があり、鐘楼がその名残をとどめています。毎年10月10日の秋祭りに奉納される相撲は、「泣き相撲」ともいわれ、小児の健康を願うもので、県の文化財に指定されています。
  
一壺王子跡   
「一坪王子」とも「沓掛王子」ともいわれ、現在は市坪、沓掛の氏神で山路王子神社と称する。紀伊続風土記には拝殿、玉垣、鳥居、鐘楼などがあり、瑠璃光山安養寺という神宮寺があった。秋の大祭(10月10日)には県指定の無形文化財の獅子舞(獅子幕内7人 鬼2人 笛5人 太鼓1人)があり、続いてこれも県指定の奉納花相撲が催される。これは村内外の幼児が赤いふんどしを締めて各々行事役の氏子総代に抱かれて土俵の上で一勝一敗になるよう土俵の土をつけてもらい子どもの健康を祈願する。これは一般に「泣き相撲」として親しまれている。また子どもによる三人抜き五人抜きも行われ終日祭りで賑わう。
  
沓掛の松

紀伊続風土記に「沓掛の名は、おおよそ山の麓にある名なり。平地には沓を用い、坂道にはわらじを用う。よって沓を掛け、用いざるにより、沓掛の名となる。地蔵堂のかたわらに、沓掛の松あり」と記されています。つまり、この地蔵堂から拝の峠までの険しい坂道を登るためにここで靴を脱いでわらじに履きかえ、脱いだ沓をこの松に掛けて登って行ったのでした。今の松は三代目にあたります。

    
弘法井戸   
昔、お大師さまがこの地をお通りになりました。険しい坂道を登ってきたため、のどが渇いたので、とある家で水をいっぱい所望されました。おばあさんが出て来て「しばらくお待ちください」といって茶わんを片手に坂道を下りて行きました。ひと時がたち、ふた時が過ぎて戻って来たおばあさんが、茶わん一杯の水をさしあげました。村は山頂近くにあるためずいぶん水の苦労をしておりました。そんな村人の難儀を見かねたお大師さまは、杖でトントンとつついて「ここを掘るとよい」とお示しになりました。地蔵堂はほとんど山の背に近いため、水なんぞ出そうもないのに、冷水が湧き出て枯れることもないといわれ不思議がられています。
爪書地蔵
さて、水を求めた家では、おばあさんが真新しい白木の位牌の前で何やら唱えておりました。お大師さまがわけをお尋ねになると、孫がはやり病で4〜5日前に亡くなったという。そして村では、もう数人の子供が亡くなったとも言いました。あわれに思われたお大師さまが、村人の無病息災を祈って、かたわらの石に生爪で刻まれたのがこの爪書地蔵だと伝えられています。それ以来、この村では水の苦労も災難も」なく、今におよんでいるといわれています。村の人々は、今でもお大師さまの穂を偲んで、花を絶やすことなくお供えしたり、毎月太子講を開いてお祈りしています。
蕪坂・拝の峠
藤白坂に次いで熊野古道の難所蕪坂を登りきったところを「拝の峠」(はいのと)といい茶店があった。昔神武天皇ご東征の折八咫烏(鴨邑の建角見命だとされている)に先導されたのでこの名があると伝えられている。万葉集に「木の国の昔弓雄の響矢用ち鹿穫り靡けし坂の上にぞある」とあり、紀伊国名所図会には「鏑矢もて鹿を打ちし坂なれば蕪坂と名づけしにや」とある。右大臣宗忠公の「中右記」には「白倉明神、天狗の休み岩に申の刻を過ぎて怪奇なる事あり。登るのも鏑矢を射て威嚇せり」とある。また万葉集の「安太へ行く小為手の山の真木の葉も久しく見ねば蘿生しにけり」と歌われたのもこの付近といわれている。
  
蕪坂塔下王子社
熊野詣では、平安時代の中期より始ったといわれるがすなわち上代より中世まで及で、盛況時には「蟻の熊野詣で」といわれた。この熊野古道には熊野九十九王子と総称される社祠が祀られた。上皇等の御幸の途中、熊野三山をはるかに拝まれ、また休憩されたという。この「蕪坂塔下王子」は、蕪坂峠すぐ下右手に竹薮があり社跡といっていたが戦後畑に開墾された。文化5年辰8月改認大差出帳畑村の条に、お社面f2尺5寸。裏3尺5寸、森長15間、横8間、但松ノ木雑木、と記している。明治41年宮原神社へ合祀された。

平成元年9月    有田市教育委員会

   
熊野参詣道について
蕪坂は宮原町道村から下津町沓掛へ越す坂で、熊野参詣道のうちでも古くから陸路交通の要路であった。万葉集に「木の国の昔弓雄の鳴矢もち鹿とりなべし坂の上にぞある」とあり紀伊国名所図会には「鏑矢もて鹿を射ちし坂なれば蕪坂と名付けしにや、峠に茶屋あり」と鏑が蕪に変ったものと記されている。蕪坂塔下王子から途中太刀ノ宮をすぎ弘法大師が大岩に爪で書いたと伝えられる阿弥陀、地蔵の二尊像を祀る爪書地蔵(市指定文化財)があり、今も人々から信仰されている。麓に山口王子社跡があり、共に熊野九十九王子社跡の一つである。又街道往還の途中、不幸にも病に倒れた人々の霊を慰めるためこの地の人達により「伏原の墓」がつくられ、今も四季折々の花が供えられている。
          平成3年1月
有田市教育委員会  和歌山県教育委員会
   
蕪坂塔下王子
熊野御幸の盛んな頃、蕪坂には、峠と南麓の二か所に王子がありました。峠の王子社は、藤原定家の日記では「カフラサカノタウ下王子」、藤原頼資の日記では「蕪坂王子」と記されています。南麓の王子社は「山口王子」あるいは「宮原王子」です。ところが、『紀伊続風土記』では、峠に蕪坂王子・塔下王子の二社があったと記しています。これは藤原定家の日記を、読み間違えたと思われます。『紀伊国名所図会』に「蕪坂王子社蕪坂の上にあり」と載せられているのが、当王子社のことです。また、『紀伊続風土記』では、別名として、「鏑鎚王子」を当王子社に比例していますが、『紀伊国名所図会』では、麓の山口王子社と共に、宮原神社に合祀されましたが、平成元年、地元の愛郷会によって社が再建されました。
  
蕪坂
この歌は、万葉集巻九に所収されていて、大宝元年(701年)10月に持統天皇・文武両天皇が紀伊国へ行幸されたとき、従者が詠んだものである。江戸時代の名著紀伊名所図会に記されているように、猟師が鏑矢をもって鹿を獲りおさえた坂の上であるここはの意で、蕪坂の由来とされている。私共は、この万葉集の道と万葉集を後世に伝え遺すために、ここに歌碑を建立した。

        平成11年(1999年)9月

  有田市宮原愛郷会   有田市教育委員会

   
爪かき地蔵
この堂は、古く遍照山金剛寺と称し、境内周囲80間方2間の堂のみ存す。と『続風土記』に見られる。四米余の自然石に阿弥陀と地蔵とを線刻する。室町時代の作であろうが弘法大師が爪で描いたという説話が伝えられている。熊野古道にあたる蕪坂の中腹にあり、旅人の疫病を癒すといわれた。永禄6年(1563年)岩室城主畠山政能の堂宇修理科寄進の文書が伝わっている。

平成元年9月   有田市教育委員会

  
山口王子
建仁元年(1201)10月9日、藤原定家は、「カフラサカノタウ下(蕪坂塔下)王子」の次に、「カフラサカ山口王子」に参拝しています。また、藤原頼資は承元4年(1210)4月25日に、蕪坂の次に宮原の王子に参拝しています。共に、蕪坂を下って最初の王子社に参拝していることから、同じ王子社と考えられます。蕪坂の麓にあるため、定家は「山口」といい、頼資は、この地が宮原庄であったことから、「宮原」と呼んだのでしょう。江戸時代には山口王子社、ありぃは鏑鎚王子と呼ばれてたようです。明治時代には王子神社となって存続していましたが、神社合祀で、蕪坂塔下王子と共に、宮原神社に合祀されました。現在の社は、平成3年に地元の愛郷会の人たちによって、再建されたものです。
  
伏原の墓
ここに祀られている墓は、昔熊野詣や西国巡拝の途中、不幸にして病に倒れ故郷に帰れなかった人の霊を弔うため、この地の人達や遺族が建てたものである。これらの中には遠く丹波国(豊岡)や遠江国(浜松)の墓もある。

有田市教育委員会    宮原愛郷会

  
熊野参詣道について
山口王子から宮原の集落を通り「宮原の渡」で有田川を渡り、糸我にいたる。江戸時代紀州藩はこの道を官道とし、この宮原に宿駅をもうけ交通の要所とした。ここには常に人や馬が準備されおおいに賑った。有田川畔の天神社のそばに「札場地蔵」とよばれる祠があり、有田川が増水したとき、ここに川止の制札を建てたのである。白倉山麓には重要文化財木造十一面観音立像のある広利寺、県指定法燈国師関係資料のある禅宗の円満寺が所在する。また、県指定無形民俗文化財「有田川の鵜飼」は600年前の応永年間に始められたともいわれ、「徒歩づかい」という特殊な漁法が伝承されている。

      平成3年1月

有田市教育委員会    和歌山県教育委員会

   
糸我得生寺の来迎会式

和歌山県指定無形文化財 指定   昭和43年4月16日

紀伊国有田郡雲雀山で中将姫を殺害せんとした武士伊藤春時は姫の徳に打たれ殺害することが出来ず、名を「得生」と改め姫をお守りすることとなった。これが得生寺の寺名のおこりである。得生寺におまつりしている中将姫のご命日にちなんで毎年5月13日、14日の両日盛大に行われるのが、この来迎会式で、またの名を「二十五菩薩練供養」とも言い、姫のように美しく聡明なお徳を得させてもらおうと子供達が二十五菩薩となってお渡りするのである。
     平成7年3月

和歌山県教育委員会    有田市教育委員会 

   
糸我村の一里塚

和歌山県指定文化財 (昭和33年指定)

この一里塚は、江戸時代初め紀州藩が熊野街道整備の一環として築いたもので、城下より5里(約20キロメートル)の位置にある。熊野街道を挟んで東西に塚が造られていたが、明治初年に東塚が取り除かれ、また道路拡幅等により西塚の一部が削り取られているものの、交通史を知るうえで貴重な文化財である。史料では、5間(約9メートル)四方であったといわれ、昭和60年度の発掘調査においても確認されている。

     昭和62年3月

和歌山県教育委員会    有田市教育委員会 

   
糸我王子
藤原宗忠は、天仁2年(1109)10月18日に、有田川に架かる仮橋を渡って、伊止賀坂を登っていますが、王子の名は、その時の日記には書かれていません。それから約百年後、藤原定家は後鳥羽上皇の熊野御幸に随行して、「いとカ王子」に参っています。「糸我」王子と正しく書いたのは、藤原頼資の日記です。頼資は修明門院に随行して、承元4年(1210)4月25日に、この王子社に参拝しています。糸我王子社は近世には廃絶していたらしく、『紀伊続風土記』に、「廃糸我王子」と記されています。また、この付近には、江戸時代に「水王子社」と「上王子社」がありましたが、地元では、上王子社を糸我王子に比定しています。両王子社は明治時代、稲荷神社に合祀されましたが、平成7年、愛郷会の人たちによって、当地に糸我王子社として再建されました。
  
糸我王子趾
熊野詣では、平安時代の中期より始ったといわれるが、すなわち上代より中世にまで及んで盛況時には「蟻の熊野詣で」といわれた。王子とは若一王子といい祭神は天照大神である熊野三山をはるかに拝まれ、また休息されたところという。糸我坂への上り口左側の畑の中に在った。明治40年稲荷神社に合祀された。「糸我王子」は『御幸記』に「イトカハ王子」とあり後世「糸我王子」と称されたが、江戸時代には、「上王子」と呼ばれていた。これは下の水王子神社に対して上にあるためそう呼ばれたものと思われる。

平成元年9月  有田市教育委員会

  
夜泣松
戦争中までここに松の大木が繁っていた。伝承によると、昔平清盛の連れの子が夜泣きをするのでこの松の皮をくすべたところ泣きやんだという。
  
逆川王子
藤原宗忠の日記、天仁2年(1109)10月18日条に「逆河王子」と書かれているのが、最も古い文献です。藤原定家は「サカサマ王子」と呼んでいます。この王子は、江戸時代には、吉川村の氏神として祀られ、神主が置かれていたようです。明治時代には村社となっていましたが、明治43年の神社合祀で、田村の国主大明神(現、国津神社)に合祀されました。王子の名の由来は、定家が王子の近くを流れる川のことを「水が逆流しているので、この名がある」と日記に書いているように、付近の多くの川とは異なり西の海の方へは流れず、東へ流れているところから、逆川と呼ばれたのです。
   
熊野参詣道 方津戸峠(方寸峠)
方寸とは「一寸四方の狭い所」の意味である。この峠は、古来「方津々坂」「程遠坂」と呼ばれてきた。熊野参詣の旅人達は、有田川を渡り、険しい糸我峠を越え、逆川王子社に参拝した。峠に登ると、遠くには日高へ越える難所「鹿ガ瀬峠」、また眼下には湯浅と広の平野、青い海原、白砂と青松という絶景が一気に広がる。熊野へはまだまだほど遠いが、ここで一息を入れて、旅の疲れを癒したことと思われる。また、平安時代の末期、当時の湯浅荘の地頭湯浅宗重は、熊野への要所である湯浅を本拠地にし、この峠の東側に有田地方で最古の「広保山城」を築き、紀州随一の強力な武士団を作り上げた。(後にさらに東の青木山に移転した)江戸時代(湯浅醤油盛況の頃)、大阪方面での醤油売上金移送には、湯浅から出向いた受取人に紀州藩の役人が付き添い、この峠まで来ると正装した湯浅の業者代表が出迎えに来て礼を述べるのが慣わしで、湯浅の玄関口であったという。
   
湯浅 醤油店 角長
この建物は慶應2年(1866)岡屋彌三右ヱ門建築の仕込蔵である。往時の醤油道具を陳列し、古き蔵人達の労苦を偲び又彼等の秀れた智慧の結晶を保存して醤油のふるさと 湯浅の證とするものなり。

角長店主

  



   

参考資料
  
近畿日本鉄道 http://www.kintetsu.co.jp/
JR西日本   http://www.westjr.co.jp/
京阪電鉄 http://www.keihan.co.jp/
   
   
近鉄乗車券  宇治山田-鶴橋 1750円
近鉄特急券 宇治山田-鶴橋 1280円
JR乗車券 鶴橋-和歌山 1050円
JR乗車券 和歌山-海南 230円
JR乗車券 湯浅-鶴橋 1890円
JR特急券 海南-天王寺 1450円
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