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JR古座駅---津荷---JR田原駅--堂道---清水峠---JR紀伊浦神---休平峠---市屋峠---二河坂峠---ゆりの山温泉---
湯川温泉---駿田峠---勝浦観光ホテル---JR那智駅
  
2007年7月21日〜22日
大辺路の最後の区間JR古座駅からJR那智駅までを歩こうと一泊二日で南紀に出かけた。梅雨明け前とはいえ、この暑さの中、1日でこの区間(約23km)を歩くのは私には無理と判断し、前日夕方に田原から浦神まで歩き、翌日の炎天下に歩く距離を短くしようと思った。前日に古座から田原を歩くのは距離が長すぎて、暗闇の中歩く危険を避けたかったからだった。
7月21日午後13時45分伊勢市駅からJRに乗り、多気で南紀5号に乗り換えて紀伊勝浦到着予定は16時34分だったが、5分ほど遅れた。ここから前回同様連絡のいい熊野交通のバスを利用した。紀伊勝浦16時45分発、潮岬行きのバスで田原で降り(写真)(17:17)、国道42号線を田原川沿いに北に(新宮方面)進んだ。歩道がなく、狭い国道を車に気を使いながら歩くのは神経を使う。10分弱で堂道橋を渡り、堂道バス停前に着いた(17:26)。右側に地蔵道標がある(写真)。さらに国道の緩やかな坂を登ると右側に古座町・那智勝浦町境界の立て看板があった(写真)(17:50)。この先に口熊野・奥熊野境界址碑があるらしいが、時間がないので、この手前から、左折して古道へと入っていった(写真)(17:51)。すぐに廃車のところを右折(写真)、その先の左奥の山道へ入っていった。いずれも曲がるところには大辺路の道標があるので助かる。すぐに小川があり、水につからないと、対岸に渡って、古道を歩くことができない。国道からの入り口にロープが張ってあったのが気になったが、ゴアテックスの登山靴で、多少水に浸かっても大丈夫なので、このまま進んだ(写真)(17:54)。杉林の地道、薄暗い山間の道を行くと(写真)、国道から入って10分程で上田原分岐の道標があった(写真)(18:02)。右上田原、左大へち」と書いてある。石畳の残る古道を登ると清水峠に到着した(18:04)。このあと下りになり、「ああー峠も越えた。これで時間どおり行けそうだ」と思っていると、下の川原の方から、「ウウッツ」という音がした。びっくりしてその方向を見ると猪がいるではないか。それほど大きくはなかったと思うが、一瞬からだが固まってしまい、胸がパクパクいうのがわかった。とにかく体を低くして、猪の視野から外れるように、目を合わさないようにしてゆっくり、ゆっくりその場から遠ざかった。しばらくしてそっと後ろを振り向き、後から猪が追ってこないのを確認して、とにかく夢中で小走りに先へ先へと急いだ。荒れているところが多く、湿地帯では草で道もよくわからない箇所もあったが、泥に靴が浸かろうが、道に木が倒れて這うようにしていかないと通れないところだろうが、とにかく早く早くと無我夢中で先を急いだ(写真)。もういいだろうと思った時、木の上の方から、「キッ、キッ」とこちらを威嚇するような泣き声が一足歩を進めるごとに聞こえる。やっと落ち着きかけた心臓が再び「バクバク」。そーっとその場を通り抜け、木々の間から浦神湾が見えた時の安堵感は表現のしようがなかった(18:27)(写真)。民家の間を通って(写真)JR紀伊浦神駅の裏側を通り(写真)(18:36)、海蔵寺に行き(写真)、そこから踏み切りを渡って、JR浦神駅に着いたのは18時43分だった(写真)。18時52分発新宮行きJR普通列車に乗り、紀伊勝浦駅に19時09分に到着。あたりはもう薄暗かった。今夜の宿泊先、ホテルシャルモントは駅のすぐ近くなので、助かった。小さな部屋だけれど、まずまず。シングル、バス・トイレ一泊朝食付きで5250円は安い(ジャランポイント使用でさらに500円引き)。泊まるだけなら充分の宿だ。近くの居酒屋で、マグロ定食1525円で夕食をして明日に備えて早々と寝ることにした。
あとで考えると、清水峠に入るところにロープが張ってあったのはなにか意味があったのかもと色々考えながら、それでも無事だったことを感謝しなからベットについたのだった。ネットでみたHPを印刷してきた紙を読み返すと、猪のぬた場や鹿の足跡があると書いてあった。「猪に遭遇したら、どのように対処したらいいのか。」ぜひどなたか教えていただけたらと思います。もう絶対夕方には一人で古道歩きをするまいと思った。
  
翌7月22日、宿に頼んで特別早く朝食を用意してもらい、7時にはホテルを出発。7時19分紀伊田辺行きJR普通列車に乗って、古座まで行った。古座に着いたのは7時48分、ここで帰りの列車の切符を買って7時53分、紀伊田原に向かって歩き始めた(写真)。朝早いのでまだ日差しは強くないが、それでも10分もすると汗びっしょり。国道42号線に出て、左折すると赤い古座大橋が見えた(写真)(08:04)。橋を渡る手前に第5福龍丸(第7事代丸)建造の地の碑があった(写真)(08:07)。1954年、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で「死の灰」を浴びた日本のマグロ船の船長の久保山さんが死亡。他の船員の多くも原爆症、その後の合併症に苦しみながら早死したと聞いている。古座大橋を渡り、急な階段を降りて古座の集落を回り、古座神社の前を通って(写真)、再び42号線に出た。しばし42号線を歩くと左に古座川病院があり、その前に九龍島(くろしま)が見え、案内板があった(写真)(08:31)。昔海賊が住んでいた島とのことだ。ここからは国道を津荷(つが)を通り(写真)(08:52)、下田原漁港まで歩いた(写真)。日が照り始めた国道を歩くのは結構体力を消耗する。途中古座ビィラ前バス停には地蔵があった(写真)。国道ごしに熊野の海を見ながらひたすら歩き、下田原に着いたのは9時45分頃。ここから左手に集落の中に入り、JR田原の駅をめざした。途中でのんびりしていては電車に間に合わないことに気づき小走りになった。駅には9時52分に到着(写真)。JRは9時52分発の紀伊田辺行きだ。駅横の木葉神社に立ち寄る予定だったが、その時間もなく、線路をまたぐ陸橋の上から電車の運転手さんに「待って〜」と手を振りながら、やっとの思いで滑り込みセーフ。ここから紀伊浦神までJRで行き、昨日の続きを歩く予定だ。
  
紀伊浦神駅に9時58分に到着した(写真)。駅のすぐ近くにコンビニがあるとの情報で国道まで歩いていったが、このコンビニは閉鎖されていた。昼食のおにぎりがない。持ってきたカロリーメイトでしのぐしか仕方がない。お茶だけ駅前の自販機で買い、10時19分、那智駅に向かって古道歩きに出発した。昨日参拝した海蔵寺前を通り(写真)、山の中へ進んでいった。田無川にかかる鬼頭橋、高木橋、長光橋を渡り(写真)、林道を気持ちよく歩いていった。炭焼き小屋を過ぎると大辺路の標識があり、ここを右手の山道に登っていった(10:40)。結構険しい山道だった。15分程で休平峠に着いた。「延享元年・浦神住・願主順西銘」と書かれた石の台座があった。峠には茶屋跡と思われる平らな場所があり、ここのベンチでしばらく休憩した(10:56)。11時04分峠を下り始めた。山道から降りたところに地蔵道標があり、「右ハやまみち 左は大へち」と書かれていた(写真)(11:23)。木々の間からは庄池が見えた(写真)。ここから庄川に沿って林道を下ると8分ほどで再び石の角柱道標があり、「右ハやまみち 左は大へち」とあった(写真)。この先は向地集落の中を大辺路の標識に従い歩いていった。田園と澄み切った小川、何だか昔を思い出す風景に出会ったようで、懐かしかった。大原神社前と通り(写真)(11:43)、県道45号線に出ると大泰寺の入り口があり(写真)(11:53)、しばらく舗装道を標識にしたがって行った。諏訪神社前を通り過ぎ(写真)(12:01)、大宮橋で太田川を渡り(写真)、右折。すぐ左折して市屋の集落に入っていった(写真)。さらに進むと太田神社があり、ここで一休憩(12:07)。昼食がわりのカロリーメートを食べて12時15分に太田神社を発った。民家がとぎれたあたりに古道大辺路の標識があり、ここを左折し(写真)(12:18)、市屋峠へと向かっていった。12時30分には峠に着いた。峠には1810年に作られた地蔵尊が祀られていた。峠を下ると与根河池(よねごいけ)が見え(写真)、グリンピア南紀敷地内に到着(写真)(12:45)。敷地内の大辺路標識に従い、地蔵尊前を通り(写真)、林道を通っていくと大辺路標識があり、左折して急な山道へと入っていく(写真)(13:06)。すごく急な坂道で両手で道脇の木をつかみながら登った。二河坂峠には13時16分に着き、そこから尾根道を歩きやがて坂を下って小川沿いの沢に出た。道は川を渡りながら右にいったり、左側にいったり。いつまでたっても古道の標識が見えないので又間違えたのかと不安になり、少しもどった。でも「やはりこの道しかない」そう思い又川沿いの道を行った。川の中は苔むした石がごろごろ転がっていた。「気を付けないと滑る」そう思った次の瞬間ツルリ。やはり川の中で転んでしまった。苦労してやっと沢沿いの道を抜け(13:40)、二河川(にこうがわ)の川岸にたどり着き、橋を渡って右折して民家のある道を通り、大辺路の標識で左折。さらに突き当たりの三叉路を左折して、ゆりの山温泉に到着(13:59)。ここでやっと自販機があり、新しい飲み物が確保できた。しばらく駐車場のベンチで休憩して14時10分にゆりの山温泉を出発した(写真)。ゆかし潟沿いに進み、よばずの坂を過ぎ、橋川橋を渡って右折した。さらに標識に従い左折。国道42号線にでる手前左手にある湯川神社を見て(写真)国道に出た。国道を左折してしばらく進んだ。湯川トンネル手前で国道から左にそれ(写真)(14:42)、製材所敷地内を通って(写真)左折山道に入っていった(14:47)。製材所で犬に吠えられこれにじーっと耐えながら歩いたので、山道に入ってしばらくして右折する大辺路の標識を見逃してしまった。ひょうたん池に出てしまい(写真)これは道を間違えたかもと思いつつ、川には橋がかかっていたのでついついさらに山道に入っていってしまった。いつまでたっても川を上流に向かってすすんでいることに気づき、もう一度元きた道を引き返した。製材所手前まで引き返し、今度は注意深く標識を探しながら進んだ。右折すべき古道には15時23分に着いた(写真)。約40分のロスだった。それにしてもそのまま間違えて山奥に入らなくてよかった。ここから古い急な石段を登り駿田(するだ)峠へ向かった。これが今回最後の峠越えだ。15時30分に駿田峠に着いた。道に迷ったのでゆっくりする間もなく、続いて緩やかな坂を下った。ちょうど勝浦観光ホテル裏の駐車場に出た。ここからはもう道に迷う時間的余裕がない。最もわかりやすい国道42号線を那智駅に向かって進んだ。国道沿いの円心寺前を15時58分に通り過ぎ、16時10分にJR那智駅に無事到着(写真)。色々あった今回の古道歩きだったが、無事で何より。駅横の丹敷の湯に浸かり、海を眺めながら、反省多き大辺路歩きを思い起こした。
17時04分発新宮行き普通列車は6分遅れで到着。これに伴ない南紀特急も遅れて発車。新宮17時28分発予定南紀8号に乗って、多気圣由で伊勢市には午後8時頃に着いた。

 

案内板の説明
  
第五福龍丸の沿革
1947年4月 古座造船所でカツオ漁船「第七事代丸として進水
1953年5月 マグロ漁船に改造され、「第五福龍丸」と改名(母港 静岡県焼津市)
1954年3月 3月1日ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で被災。「死の灰」を浴び、23人の乗組員が急性放射能症となる。9月23日無線長の久保山愛吉氏が死去。マグロの放射能汚染により国民の生活に深刻な影響を及ぼし、原水爆禁止の国民的な運動がおこる。
1956年5月 東京水産大学の訓練船となり、「はやぶさ丸」と改名。
1966年10月 廃船処分となり、東京「夢の島」に廃棄(エンジンは「第三千代川丸」に搭載)
1968年4月 第五福龍丸の保存運動がはじまる。
1970年2月 「はやぶさ丸」を「第五福龍丸」に復名。
1976年6月 都立第五福龍丸展示館が落成、保存展示される。
1996年12月 熊野灘に沈んでいた「エンジン」が28年ぶりに引き揚げられる。
1998年3月エンジンと船との再会を願って、東京都へ寄贈した。
      平和を願い記念碑を建立する  1999年4月  古座町
   
九龍島<くろしま>
昭和49年3月指定 串本町指定記念物
東西270m南北180m高さ51mの無人島イヌマキタブノキ等の亜熱帯植物が原生、頂上には弁財天を祀る祠があり古くから漁業神海上安全の守り神として信仰されてきた。海賊が住んでいたという洞窟があり島にまつわる民話・伝説が伝えられている。
   
ゆりの山温泉
本温泉が発見されたのは古く、熊野詣での天皇、上皇をはじめ宮人や武人たちが、その頃この温泉で湯垢離(ゆごり)をとったといわれる。当ゆりの山温泉も、特にリユマチ、皮ふ病、眼病等によく効きます。
   
ゆかし潟
ゆかし潟は海の水と川の水が混じる汽水湖です。
呼ばずの坂
この坂は、明治の初め頃、この村にやってくる郵便配達員が、坂の上から、村人に呼んで取りに来させていた(坂を下る手間をはぶくため)この坂の辺りでは、郵便屋と間違われないため大声をあげて人を呼ばなかったそうです。

  

   

参考資料
ホテルシャルモント
〒649-5335 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町築地3-16
TEL 073-552-0203
インターネット予約 シングルルーム 1泊朝食付き 5250円
    じゃらんポイント割引  500円
    割引後 4750円
熊野交通バス      0735-62-5101
  
JR
 JR乗車券     伊勢市-紀伊勝浦   2940円
 JR特急指定券  多気-紀伊勝浦       2810円
 熊野交通バス   紀伊勝浦-田原 480円
 JR乗車券     紀伊勝浦-古座  320円
 JR乗車券     紀伊田原-紀伊浦神 180円 
 JR乗車券     那智-伊勢市  2940円
 JR特急自由券  新宮-多気  1780円
夕食
  1575円