九度山駅---真田庵---慈尊院---丹生官省符神社---展望台---雨引山分岐---六本杉峠---丹生都比売神社---八町坂---二ツ鳥居
---古峠---上古沢駅
   
2008年12月28日
高野山町石道は、高野山麓の慈尊院から大門を経て奥の院へ至る約24kmの参道です。高野七口といわれる七本の参詣道のうち、町石の林立するこの道は、皇族や武士達が威儀を正して上った表参道でした。慈尊院から丹生官省符神社に向かう階段の途中に町石道の起点となる180町石があり、ここから高野山町石道が始ります。今回はここから136町石手前の六本杉峠で、町石道を離れ、丹生都比売神社に立ち寄り、八町坂を登って、二ツ鳥居(120町石)で再び町石道を古峠(124町石)まで進み、ここで、再び町石道を離れて一気に上古沢駅まで下ります。
年の瀬も迫った12月28日、明るいうちに歩き終えたいので、頑張って早朝6時4分の近鉄に乗って、鶴橋経由で難波まで、ここから南海電鉄高野線で、九度山駅まで行った。九度山駅から歩き始めたのは9時21分(写真)。九度山町を通り、真田庵に立ち寄った(9:31)。ここは戦国の名将真田親子隠遁の地といわれている。続いて不動谷川を渡り、慈尊院に着いた(9:54)。慈尊院は弘法大師(空海)の母君が晩年ここに移り住んだところで、高野山へ登れないために大師自ら会いに訪れたところである。このため女人高野ともいわれたが、その後、高野山の寺領支配や諸国からの年貢を集めるために高野政所が置かれ、また皇族や貴族の休憩所、宿泊所となり、高野山の玄関口としての役割を果たしてきた。母君の墓所の弥勒堂(国重文)に安置されている弥勒菩薩坐像は、高野山創建当時の寛平5年(893)の銘があり、国宝に指定されている。ちょうど年末のためなのか境内の庭や廊下に雑然と色々なものが置かれてあり、あまり雰囲気は良くなかった。おまけにその弥勒堂とやらはどこにあるのか、やっと探し当ててこれからの無事を祈ったが、雑然とした小さなお堂だった(写真)。勿論、弥勒菩薩像はどこにあるのか国宝だから仕方ないのかな。そんな風にして境内をうろうろしていたら、思いのほか時間が経ってしまった。よく説明書を読んでいなかったので、町石道の起点となる180町石の場所がわからず、境内の急な階段を登って180番町石に着いたのは10時7分だった(写真)。階段の上にある丹生官省符神社に参り、この奥からいよいよ町石道へと入っていった。ここからは人通りもほとんどなく、いつもながらの静かな古道歩きが始った。熊よけに今回から鈴に加えて、山ラジオを持っていくことにした。丹生官省符神社を出たところに179番(写真)。勝利寺(写真)下のきれいな公衆便所近くに178番と、一つずつ町石をたどりながら歩いた。町石はなかなか立派なもので、高さ約3m、上に飾りがついていて、これは五輪卒塔婆と言うらしい。柿の木、竹林の中を簡易舗装された道をどんどん登って行くと、168番あたりからややなだらかになり、九度山、橋本方面が一望できるようになる(写真)。162番を過ぎたあたりから地道になり、小屋を過ぎ、左の山道を登ると杉林の中に入っていった(11:10)(写真)。急な坂道を登り、雨引山分岐点を過ぎ、150番あたりまでくるとしばらくは杉林の中の平坦な道になる。142番を過ぎた頃からから又登り坂になり、石段を登って六本杉峠に着いた(12:19)(写真)。ここから町石道を離れて丹生官省符神社に向かって坂を下った。県道との合流点で、天野の里に出た(12:39)。すばらく県道を進むと左折。右手に赤い太鼓橋が見えて丹生官省符神社に到着(12:45)。太鼓橋を駆け上がり、本殿に参った。ここで初めて本殿の屋根に雪が残っているのに気づいた。少し前の寒波のとき、このあたりには雪が積もったのだろう。ここで昼食をとり(朝コンビニでおにぎりを買う時間がなかったのでカロリーメイトで済ませた)、13時10分に次の目的地、二ツ鳥居に向かった。有王丸の墓(写真)、院の墓(写真)、を過ぎ、八町坂の急坂を登っていった。目の前の大きな鳥居が二つ並んでいるのが見え(13:49)、その向こうに屋根がついた展望台兼休憩所があった。ここで又一休み。次は町石道を古峠の方へ向かった。124番のある古峠に14時5分に着いた(写真)。ここから再び町石道を外れて、上古沢を目指して急坂を一気に下っていった。道脇には残雪があり、道もまだ抜かるんでえいるところがあり、滑らないように、膝を痛めないように注意して杉林の中を下っていった(写真)。舗装道に出たのは15時2分だったが、ちょうど向こうの方に上古沢駅が見え、橋本方面の列車が着くところだった。もう少し早ければ間に合ったのにと思ったが、そこから駅までが見た目より結構時間がかかった。そこからさらに下って国道370号を横切り、民家の間を通って上古沢大橋を渡り、その向こうは再びきゅうな登り坂、息を切らしてやっと駅にたどり着いた(15:18)(写真)。たっぷり休む時間があると思ったが、次の橋本方面行きは15時28分とのこと。あわてて切符を買って荷物の整理をしていると、橋本方面からの列車が到着。二人の腰の曲がったおばあさんが降りてきて駅員さんと挨拶をかわして、駅に置いてある杖を持って家に帰っていった。「あの人達この急坂を降りて家に帰るんだろうか」とびっくり。それとこの小さな駅、当然無人駅だろうと思ったが、何と駅員さんがいて、切符を売ってくれていたのにもびっくり。JRなら当然無人駅だろう。
橋本で乗り換えて、難波まで南海電鉄で行き、ここから近鉄でわが町には19時17分に到着した。
  

 

案内板の説明
   
世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道
高野山への参詣道は7本あるが、その中でも空海が切り開き、その後最もよく使われた主要道が「高野山町石道」で、沿道には一町(約109m)ごとに町石が建てられている。町石には壇上伽藍からの距離(町数)のほか、密教の金剛界三十七尊及び胎蔵界百八十尊の梵字、寄進者の名前、建立年月日及び目的などが掘り込まれている。もとは木製の卒塔婆が建てられていたが、鎌倉時代に各層の寄進を募り、現在みるような町石になった。220基の町石のうち179基については当時のものが遺り、一町ごとに礼拝を重ねながら山上を目指した参詣の様子を今に伝えている。
   
真田庵由緒

真田庵は真田昌幸公及幸村公の旧蹟である。昌幸公は信州上田の城主で智謀百出の名将であった。関ヶ原合戦で豊臣家に仕へ天と地の利を失って惜敗した。一時高野山に遁れ其後寺領九度山に陀住居を持った。晝は農耕に努め又真田紐を編み夜は天文気象を究め又物理を学び只管軍略の研究に努められた。慶長十八年戦争の危機迫り翌元和元年五月七日大阪夏の陣に出陣。屢々大功を建てたが武運拙く戦死された。毎年五月五日を記念し真田祭を執行して英霊を慰む。

  
六文銭旗の由来

天正十年三国峠で上杉の大軍を戦わずして説伏せた真由父子は三百余人の軍勢を引いて三国峠を過ぎた。笠が城で北条氏政の大軍四万五千と対決。その時幸村は十四才。父昌幸に「家名を挙げるのは、この時です。どうして恐れる事がありましょうか。」と言って無紋の旗を取出し北条方の重臣松田尾張守の旗の紋、永楽通宝の紋を描き旗六本を造り味方を六隊に分け敵陣に夜討ちをかけた。北条方は松田が謀反を起したと言って大騒動でした。昌幸は幸村にその功を賞め「お前は今から定紋を六文銭にする事を許す。」と言いました。是が真田の旗印六文銭旗の由来です。西の紋の扉についている雁の紋は幸村公以前の真田家が家紋として使っていたものであります。大安上人が上皇室より下庶民に至る迄霊顕を施し信望を集めました。瑳峨御所はその徳をお慕いになり御紋章付の提灯と紫色の御幕を賜りました。それ以後菊の御紋章の使用を許されたのです。

   
町石道

高野山への道は、山に近づくにつれて互いに合流し、7つの道に集約され山内に入ってきます。その7つの道のうち、表参道と呼ばれているのが「町石道」です。大師自身が踏みしめ、過去多くの人々が参拝登山した「町石道」は、それ自体が信仰の対象とされてきました。高野山への表参道「町石道」は“祈りの道”ともいえます。

町石道の概要
九度山町慈 尊院 から、高野山奥の院御廟まで約24kmの道程です。1町ごとに町石と36町ごとに里石(4本)が立ち並んでいます。
“町石”とは
   高さ3m弱で五輪卒塔婆の石柱です。高野山根本大塔を基点に御廟mで36本、根本大灯から慈尊院まで180本建てられています。町数とともに山上36町を金剛界37尊、山下180町を胎蔵界180尊にあて、それぞれを表わす梵字と施主の名前が刻みこまれています。
“町石”完成まで
昔は木造の町卒塔婆が建てられていましたが、1265年(文永2年)に高野山遍照光院覚斅上人が石造の町卒塔婆建立を発願し、以来20年の年月をかけて1285年(弘安8年)に200余基が完成しました。完成後700有余年の間に数度の補修で50基ほどが再建された以外は創建当時のままです。この「町石道」は昭和52年7月に、国の史跡として指定されました。
   
かつらぎ高野山系県立自然公園内 高野町 石道(国の史蹟)

町石道は、 九度山町 慈尊院から高野山奥ノ院までの20数Kmに及んでおり、道路わきには1町毎の石造卒塔婆が合計216本建てられている。当所の木製卒塔婆は、平安時代(弘仁)に建てられたものであるが、1266年頃から20年の歳月を費して現在の石造になったことが、高野山に残る文献に見られる。

かつらぎ町観光協会

  
丹生都比売神社
高野山を含む紀伊山地北西部一帯の地主神を祀るが、金剛峯寺と密接な関係を保ってきた神社である。神仏分離令までは仏教関連の堂舎が多数存在した。国内最大級の春日造り、4棟の社殿及び桜門が現存する。
   
高野山町石道
九度山の慈尊院から山上の奥の院まで通じる道を高野山町石道といい、石造り五輪塔形の町石が一町(約109m)ごとに建てられ、天皇から庶民まで、一町ごとに合掌しながら登山した道はまさに信仰の道となっている。
  
有王丸の墓

俊寛僧都の召使有王は、鹿ヶ谷の謀議に破れて鬼界ヶ島に流され、寂しく世を去った俊寛の遺骨を、治承三年(一一七九)五月高野山に納め、法師となって主の菩提を弔い、天野に住み生涯を終えたと言われています。 俊寛の娘もまた、十二歳で天野の別所で尼となったと「源平盛衰記」に記されています。

   「有王は俊寛僧都の遺骨を頸にかけ、高野へ上り奥の院に納めつつ蓮花谷にて法師となり、諸国七道修行にて、主の後世をぞ弔ひける。」
  
院の墓

院の墓と伝えられているが、鳥羽天皇の皇后の待賢門院の墓でなく、院に仕えた中納言の局の墓と考えられています。「山家集」には、中納言の局が待賢門院の喪に服した後、京都の小倉の住まいを捨て、天野に移り住んだと記されており、久安五年(一一四九)の頃と推定されます。この地に庵を結び、入寂した後、里人が葬ったのがこの墓です。ここのすぐ下に西行堂があり、西行と関係の深かった中納言の局が、高野山への道、八町坂に面したここに住まいを持ったのも当然と言えます。

かつらぎ高野山系県立自然公園内    二ツ鳥居(国の史蹟)

この鳥居は、弘仁10年(819)5月3日弘法大使によって建立された。(紀伊続風土記)当時は木製であったものを慶安2年(1649)5月補陀洛院叟遍が私財を以って今の鳥居とした。高さ1丈7尺(約5.6m)広さ2間(約4.7m)

かつらぎ町観光協会

 

交通
近鉄  宇治山田-難波 乗車券 1750円
宇治山田-鶴橋 特急券 1280円
南海電鉄 難波-九度山  乗車券 770円 
上古沢-難波 乗車券 810円