13

JR周参見---馬転坂--西浜---タオの峠---和深川集落---和深川王子神社---長井坂---JR見老津 ---日本童謡の園---江須之川集落---JR江住駅
  
2007年5月12日〜13日
今回は大辺路の代表的な3つの峠越えのうち、残る長井坂を越えるのが主目的。JR周参見から馬転坂、タオの峠を通り、山中に入り、雄大な太平洋、そして枯木灘を見ながらのコース。
5月12日午後13時45分伊勢市駅からJRに乗り、多気で南紀5号に乗り換えて新宮に到着は16時16分。ここから特急の連絡が悪く、JR普通で串本まで行った。串本に着いたのは18時15分でもう薄暗かった。ホテルに行く途中のファミリーレストランで食事をして、今夜の宿、浦島ハーバーインに着き(写真)、明日に備えてゆっくり温泉につかり、早く就寝。翌日は朝食を早々に済ませて、7時59分串本発の普通列車で周参見まで行き、歩き始めた。
JR周参見-を8時43分に出発、線路沿いに歩き周参見の人家の中を通って国道42号線に出るとすぐに串の戸石碑群があった(写真)。この地域に関連のある人の碑で、この付近各所に散在していた9基の碑をここに集めたものとのことだ。周参見沖合いで漂流してなくなった人々やこの地域に貢献した人の碑のそれぞれの説明があった。さらに国道を行くと右に近畿大学水産研究所があり(写真)、ここを過ぎて海岸沿いを行くと、左に生コン工場があり、この奥に馬転坂の登り口があった(9:05)(写真)。最初はロープがはってある急な登り坂でいささか驚いたが、すぐ緩やかになり、20分も歩くと平らな視野が開けたところに出た。この原っぱは造成地だったが、途中で中断され放置されているらしい。草道を進むと、眼下に海が広がって気持ちのいいところに出た。海を眺めるかのように観音像が立っていた。古道はここで一旦中断され、この造成地の端のほうで、再び地道に入って行った。多分ここは前回歩いた時に知り合ったボランティアの辻田さんたちによって整備された道なのだろう。お蔭でこうやって古道歩きを楽しめ、ありがとうございます。下り道の途中で展望台の標識があり、「一見の価値あり」とのことなので、ちょっと寄り道。国道を足元にに見て、眼下に広がる絶景。枯木灘の雄大な眺めがひろがっていた。坂を下ると国道に出て西浜に着いた(10:05)(写真)。ここまで登り口から1時間ぐらい。ここでやはり古道歩きをしている方と出会い、お話を少しして今度は国道を西浜バス停手前で左折して、再び山の中へ入っていった。分かれ道には「大辺路」の標識があるのでうれしい。林道から左手に標識にしたがって、タオの峠の方へ古道を入って行った(10:17)(写真)。途中左手に一里塚松跡があり、あまり急でない山道はすぐに口和深に出た(10:33)(写真)。和深川の集落に入ると再び左手に大辺路の標識があり、人家の裏手を歩くようになっていた。集落を過ぎると和深川王子神社に着いた(10:59)。大辺路では珍しい王子の名がついている神社とのことだ。このすぐ横にりっぱな公衆便所があり、休憩ができるようになっていた(写真)。十数分の休憩をとって、今度は長井坂登り口に向かって歩いた。左に丸山の掘割の案内があった。昔は古道が通っていたらしい。集落がとぎれ、左に降りる道があり、ここが長井坂の入口だ。案内板の向こうの橋を渡って(写真)、和深川を渡り、古道に入って行った(11:28)。長井坂にも500mおきに道標があり、目安になってうれしい。最初は急な九十九折れの坂道が続き、息が切れた。このあたりには石畳の道も少し残っていた。10分か20分も登るとやがて尾根伝いの比較的平坦な道になった。新緑がきれいだった。木々の間から島々と枯木灘が望めて、足の疲れを癒してくれた。やがて下りになり、その先で県道に合流した(12:49)(写真)。この合流点手前にも石畳の残っているところがあった。鉄塔、発電設備の横を通ると再び右折して古道に入っていった。ここにも標識があった。雑草林の中の急な下り坂を行くと見老津側入口に着いた(13:15)(写真)。
ここからJR見老津駅まではすぐ。まだ時間があるので、今日は見老津の先の江住までいくことにし、ここで15分ぐらい休憩して、先に進んだ。JR見老津駅でも小休憩をして(写真)、国道42号線を江住の方向に進んだ(13:36)。旧道を通って見老津の集落を進み、再び国道に出た。日本童謡の園の分岐点に着いたのは14時2分(写真)。ここで道をそれて、日本童謡の園に立寄った。ここでも枯木灘がきれいに見えた。
分岐点までもどり、ここから坂を下って(写真)、江須之川集落のなかへ入って行った(14:12)(写真)。海沿いの漁村を通り、ちょっと道に迷い再び国道に出て、JR江住駅に14時45分に着いた(写真)。江住駅15時発の普通列車で周参見までもどり、周参見15時38分発オーシャンアロー17号で新宮まで行き(写真)、ここで南紀8号に乗り換えて、多気経由で伊勢市に着いたのは19時58分だった。今日も長い時間よく歩いた。

 

案内板
長井坂 (国指定史跡) 
見老津側 案内板
   
一名長柄坂とも呼ばれ、これより和深川に至る延長、4,5キロメートルの大辺路街道の峠道である。古道の両端は急坂で、特に見老津側は険峻で距離も長いが、中間は腐葉土の重なる平坦道で歩きやすい。全体的に古道としてはきわめて保存状態が良い上に、左側に望む眺望は果てしない大洋に広がり、まことに景色が良い。山の斜面に生い茂るこの地特有の馬目樫(うまめがし)は、特に冬季は厳しい西からの季節風に吹き付けられ、山肌にへばりつき葉の落ちた枝も多く、あたかも枯木の様で、前面の海の「枯木灘」なる名称の由来も納得できるものである。この道が古道として保存状態が良い理由は、昭和四十年(1965)頃まで道に沿って電柱が立っており、その保守上毎年下草刈りをしていたことと、この一帯が見老津地区の区有林であるため、植林化せずに雑木林で残されたによると考えられる。この上り口付近で昔合戦があったと、真偽のほどは別として、この地方の古書「安宅一乱記」に記載されている。亨禄三年(1530)十二月二十日、新宮の領主堀之内安房太郎の軍勢二百五十人が、周参見の地を奪い取ろうと長井坂を攻め上がってきた。迎え撃つ周参見太郎の軍勢五百余人が山中から矢を射かけ、槍をしごいてつきかかったため、新宮勢はなだれを打って打ち破られたと書いている。
   
また、この先の口和深の旧家には、この古道にちなんだ古歌にちなんだ古歌三首が伝えられている。

 和深山世に古道をふみたがえ、まよひつたよう身をいかにせん                                              

源 俊頼

 和深山岩間に根ざすそなれ松、わりなくてのみ老やはてなし
                                              

 藤原清輔

 身のうさを思ふ涙は和深山、なげきにかかる時雨なりけり
                                              

西行法師

 源 俊頼(1055−1128)は平安後期院政時代の代表的歌人。白川院が十二回熊野参りをしているので、おそらく俊頼も同行したと思われる。
 藤原清輔(1104−77)は朝廷の新任を得て多くの歌集・歌学集を執筆するなど、平安後期の代表的歌人。
 西行法師(1117−90)は平安末期の歌人。もとは武士であったが、無常を感じて出家し、全国を行脚し
ながら和歌を作った。
   
この上り道の途中には、「茶屋の段」があり、今は衛星電話アンテナが建っており、そこには江戸時代の道標がある。また昔「弁当掛け松」があったといわれ、それにかかわるエピソードもある。古道の平坦部には「段築」などもあるが、これらに関することは、和深川の上り口の案内板に記載されている。平坦部の終点近くの、左辺下方に下る道は国道四十二号線の道の駅「イノブータンランド」に至る道である。それを下りずにさらに進むと、右辺下方に向かって和深川に達する下り道である。
なお、「長井坂」「長柄坂」の二つの呼び名があるが、本来は同一のものである。
形容詞「長い」の語尾が、この地方の訛で、「長え」となったものであって、もちろん「柄」は後世の当て字である。
すさみ町教育委員会
   
長井坂
長井坂は、周参見と見老津間を結ぶ標高200m以上、全長4,5kmの大辺路街道の古道で、ほぼ東西にのび別名長柄坂と呼ばれている。沿道には美しい自然林が残り、また素晴らしい熊野枯木灘海岸県立自然公園を遠望できるポイントにも恵まれている。

長井坂西登り口まで約4km

   

和深川王子神社
移転創建 寛永2年(1625)
祭神  天照大神 若一王子
     高倉下命 応神天皇
     稲荷神社 稲倉魂命(ウガノミタマノミコト)
当神社は左谷川の上流から移転されました。
美しい山野の彩、清き水長るる郷は、人々の心身を癒し、和みのすばらしいところから、和深川の地名がつけられたといわれています。
    
大辺路街道 長井坂(長柄坂)

見老津側 林道の案内板

往古より紀南には、熊野三山への参詣道として大辺路・中辺路の二街道が開けていた。両街道ともいずれの時期からあったかは定かでないが、延喜7年(907)に宇多天皇が熊野参詣をした以前に、すでに通じていたと考えられる。
熊野大辺路とは田辺より那智浜の宮までの海岸沿いの街道のことで、そのうち富田坂から見老津までは山中を通り、富田坂・安居坂・仏坂・馬転坂・長井坂と峻険な坂道が続き、非常な難路として有名であった。
長井坂が和深川から見老津に至る峠道で道中ははるか潮岬までの太平洋とその沿岸部が眺望でき、その景観は「南海の大瀛(だいえい)眼下に広がる」という、まさに天下の絶景である。
   
長井坂(国指定史跡)

和深川側の案内板

一名長柄坂とも呼ばれ、これより見老津の谷口に至る延長、4、5キロメートルの大辺路街道の峠道である。
大辺路街道がいつの時代から開通されていたか記録もなく不明である。皇室の熊野参詣の最初の記録は、宇田天皇の延喜7年(907)であるが、それも通行路が大辺路か中辺路か不明であり、たとえ大辺路を通ったとしても海路であったか陸路であったかも定かでない。
「熊野年代記」には、天智天皇がが667年に、また天武天皇が683年にそれぞれ大辺路を通って熊野へ行幸したと記録されているそうであるが、史実としては認められていない。
しかしこれらの事柄は、大辺路が古くからあったことを物語っている。
この和深川の上り口は、本来はこれより下流のJR双子山トンネル口の附近であるが、線路横断を避けて、このアクセス道を設置したものである。この附近には、江戸時代からの「猪垣」がいまだにその姿をとどめている。
この坂を上りきると、やがて稜線にさしかかる。それより見老津側の下り口までは、標高250メートル前後の多少の起伏のある腐葉土の重なる平坦道で歩きやすい。
やがて行くと右側に国道42号線の道の駅「イノブータンランド」からのアクセス道と出会うことになる。
更に南下を続けると、右側の海上に樹木の生い茂った「沖ノ黒島」「陸の黒島」の二島が姿を現すが、面白いことにこの島は常に歩行者の右側に位置して、後方に見ることはない。恐らくは黒島は「扇の要」に当たり、古道は「扇の半円部」に当っているのだろう。
やがて前方には見老津戎島・江住江須崎・里野三崎が海に向かって突き出し、その南方はるかに潮岬を眺望することができる。古今の文人墨客がこぞって絶賛した、まさに無双の絶景である。
古道の途中には、二箇所にわたって段築が構築されている。段築というのは、分水嶺となる丘陵部を土手状に整形し、古道平面のレベルを一定に保ち、降水による土砂の流失を防いで通行をスムーズにしたものと考えられるが、官道としての古道の構築や管理維持上からみて、極めて重要な事例とみられる。
やがて見老津側の下り口の達すると、そこからは急斜面の下り坂で、中途に「茶屋の段」があり、今は電話中継アンテナが建っている。
ここには江戸時代からの石の道標が建っており、「みぎハやまみち、ひだりハくまのみち」と書いている。
かつてここには「弁当掛け松」といわれる松の大木があったという。
昔の周参見の人は、正月の初午の日に潮岬神社に厄除け祈願参詣をする風習があった。当日は早朝周参見を発ってここまで来ると、弁当やお茶をこの松の木に掛けて潮岬に向かった。
これより先は「水絶ち、食い絶ち」の願かけである。無事参詣を済ませた頃は歩くのもやっとの思いであったという。それかあらぬか、里野には今でも「かつえ坂」という場所が残っている。
やっとこの「茶屋の段」に到着して弁当をおろし、茶と食にありついた喜びは、まことに厄除け祈願満願成就の感であったことだろう。
これより県道のアスファルト道を通らず、さらに山中の古道の急斜面を下りきると、見老津の長井谷口の線路踏切りに達し、長井坂は終わりである。
なお、この古道に関する古歌が、土地の旧家に伝えられているが、それについては、見老津側の案内板に記している。

すさみ町教育委員会


  

   

   

参考資料
浦島ハーバーインホテル
〒649-3503 和歌山県東牟婁郡串本町串本2300-1
TEL 0735-62-1011
FAX 0735-62-3906
インターネット予約 ツインルームシングルユース 1泊朝食付き含む入湯税 6975円
    
JR
  JR乗車券     伊勢市-周参見          3890円 
    JR特急指定券  多気-新宮-串本       2290+1140円
    JR乗車券     江住-周参見      230円
    JR乗車券     周参見-伊勢市    3890円
    JR特急指定券  周参見-新宮-多気  1450+2290円