長井坂

  
和深川からの登り口付近には所々に石畳が残っていた。
   
長井坂
案内板から
長井坂は、周参見と見老津間を結ぶ標高200m以上、全長4,5kmの大辺路街道の古道で、ほぼ東西にのび別名長柄坂と呼ばれている。沿道には美しい自然林が残り、また素晴らしい熊野枯木灘海岸県立自然公園を遠望できるポイントにも恵まれている。
   
   
長井坂(国指定史跡)

和深川側の案内板

一名長柄坂とも呼ばれ、これより見老津の谷口に至る延長、4、5キロメートルの大辺路街道の峠道である。
大辺路街道がいつの時代から開通されていたか記録もなく不明である。皇室の熊野参詣の最初の記録は、宇田天皇の延喜7年(907)であるが、それも通行路が大辺路か中辺路か不明であり、たとえ大辺路を通ったとしても海路であったか陸路であったかも定かでない。
「熊野年代記」には、天智天皇がが667年に、また天武天皇が683年にそれぞれ大辺路を通って熊野へ行幸したと記録されているそうであるが、史実としては認められていない。
しかしこれらの事柄は、大辺路が古くからあったことを物語っている。
この和深川の上り口は、本来はこれより下流のJR双子山トンネル口の附近であるが、線路横断を避けて、このアクセス道を設置したものである。この附近には、江戸時代からの「猪垣」がいまだにその姿をとどめている。
この坂を上りきると、やがて稜線にさしかかる。それより見老津側の下り口までは、標高250メートル前後の多少の起伏のある腐葉土の重なる平坦道で歩きやすい。
やがて行くと右側に国道42号線の道の駅「イノブータンランド」からのアクセス道と出会うことになる。
更に南下を続けると、右側の海上に樹木の生い茂った「沖ノ黒島」「陸の黒島」の二島が姿を現すが、面白いことにこの島は常に歩行者の右側に位置して、後方に見ることはない。恐らくは黒島は「扇の要」に当たり、古道は「扇の半円部」に当っているのだろう。
やがて前方には見老津戎島・江住江須崎・里野三崎が海に向かって突き出し、その南方はるかに潮岬を眺望することができる。古今の文人墨客がこぞって絶賛した、まさに無双の絶景である。
古道の途中には、二箇所にわたって段築が構築されている。段築というのは、分水嶺となる丘陵部を土手状に整形し、古道平面のレベルを一定に保ち、降水による土砂の流失を防いで通行をスムーズにしたものと考えられるが、官道としての古道の構築や管理維持上からみて、極めて重要な事例とみられる。
やがて見老津側の下り口の達すると、そこからは急斜面の下り坂で、中途に「茶屋の段」があり、今は電話中継アンテナが建っている。
ここには江戸時代からの石の道標が建っており、「みぎハやまみち、ひだりハくまのみち」と書いている。
かつてここには「弁当掛け松」といわれる松の大木があったという。
昔の周参見の人は、正月の初午の日に潮岬神社に厄除け祈願参詣をする風習があった。当日は早朝周参見を発ってここまで来ると、弁当やお茶をこの松の木に掛けて潮岬に向かった。
これより先は「水絶ち、食い絶ち」の願かけである。無事参詣を済ませた頃は歩くのもやっとの思いであったという。それかあらぬか、里野には今でも「かつえ坂」という場所が残っている。
やっとこの「茶屋の段」に到着して弁当をおろし、茶と食にありついた喜びは、まことに厄除け祈願満願成就の感であったことだろう。
これより県道のアスファルト道を通らず、さらに山中の古道の急斜面を下りきると、見老津の長井谷口の線路踏切りに達し、長井坂は終わりである。