長井坂

  
見老津側、林道と合流するあたりにも石畳の古道が残っていた。
   
   
長井坂 (国指定史跡) 
見老津側 案内板
   
一名長柄坂とも呼ばれ、これより和深川に至る延長、4,5キロメートルの大辺路街道の峠道である。古道の両端は急坂で、特に見老津側は険峻で距離も長いが、中間は腐葉土の重なる平坦道で歩きやすい。全体的に古道としてはきわめて保存状態が良い上に、左側に望む眺望は果てしない大洋に広がり、まことに景色が良い。山の斜面に生い茂るこの地特有の馬目樫(うまめがし)は、特に冬季は厳しい西からの季節風に吹き付けられ、山肌にへばりつき葉の落ちた枝も多く、あたかも枯木の様で、前面の海の「枯木灘」なる名称の由来も納得できるものである。この道が古道として保存状態が良い理由は、昭和四十年(1965)頃まで道に沿って電柱が立っており、その保守上毎年下草刈りをしていたことと、この一帯が見老津地区の区有林であるため、植林化せずに雑木林で残されたによると考えられる。この上り口付近で昔合戦があったと、真偽のほどは別として、この地方の古書「安宅一乱記」に記載されている。亨禄三年(1530)十二月二十日、新宮の領主堀之内安房太郎の軍勢二百五十人が、周参見の地を奪い取ろうと長井坂を攻め上がってきた。迎え撃つ周参見太郎の軍勢五百余人が山中から矢を射かけ、槍をしごいてつきかかったため、新宮勢はなだれを打って打ち破られたと書いている。
   
また、この先の口和深の旧家には、この古道にちなんだ古歌にちなんだ古歌三首が伝えられている。
 和深山世に古道をふみたがえ、まよひつたよう身をいかにせん
    

源 俊頼

 和深山岩間に根ざすそなれ松、わりなくてのみ老やはてなし
                                              

藤原清輔

 身のうさを思ふ涙は和深山、なげきにかかる時雨なりけり                                            

西行法師

  
 源 俊頼(1055−1128)は平安後期院政時代の代表的歌人。白川院が十二回熊野参りをしているので、おそらく俊頼も同行したと思われる。
 藤原清輔(1104−77)は朝廷の新任を得て多くの歌集・歌学集を執筆するなど、平安後期の代表的歌人。
 西行法師(1117−90)は平安末期の歌人。もとは武士であったが、無常を感じて出家し、全国を行脚し
ながら和歌を作った。
   
この上り道の途中には、「茶屋の段」があり、今は衛星電話アンテナが建っており、そこには江戸時代の道標がある。また昔「弁当掛け松」があったといわれ、それにかかわるエピソードもある。古道の平坦部には「段築」などもあるが、これらに関することは、和深川の上り口の案内板に記載されている。平坦部の終点近くの、左辺下方に下る道は国道四十二号線の道の駅「イノブータンランド」に至る道である。それを下りずにさらに進むと、右辺下方に向かって和深川に達する下り道である。
なお、「長井坂」「長柄坂」の二つの呼び名があるが、本来は同一のものである。
形容詞「長い」の語尾が、この地方の訛で、「長え」となったものであって、もちろん「柄」は後世の当て字である。
すさみ町教育委員会