田丸城跡 2005.11
田丸城跡
 田丸城前身の玉丸城は、1336年(延元元)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと京から伊勢に下った北畠親房がこの丘陵(玉丸山)に砦を築き、南朝方の南勢地方の拠点としたのが始まりとされる。
この地は神宮の鎮座以来、都から神宮を結ぶ主要な街道であり、伊勢神宮の外港大湊から吉野へ物資を運ぶ通商路としても利用され、神領を領有するため南北両朝がしばしばこの城を中心に争奪戦を繰り広げた。
 1342年(康永元)、北朝を援護する足利尊氏に攻められ落城する。室町時代には、伊勢国司となり、霧山城(三重県美杉村)に館を構えた北畠氏の支城として再建され、北畠一族が居城、田丸御所となった。
 室町時代末期、織田信長の伊勢侵攻を受けた北畠具教は、信長の二男信雄を伊勢国司北畠氏の養子に入れることで和睦した。
天正4年、信雄に家督を譲り隠居していた具教は、信長の命で送り込まれた旧家臣達の手により謀殺され、伊勢の名門北畠氏は滅亡した。
 1575年(天正3)、信雄は大河内城(三重県松坂市)から田丸城に移った。この時、田丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸に三層の天守閣を築き、現在見られる規模を整えた。
しかし、僅か5年後に、天守その他が火災により焼失してしまい、信雄は松ケ島城(松坂市松ケ島町)を築いて移る。
 1584年(天正12)、蒲生氏郷が伊勢松坂城に入封すると、田丸城は氏郷の持城となり、氏郷の妹婿田丸直正が城代として入った。
氏郷が会津若松城(黒川城)に転封となると、田丸氏も氏郷に従い磐城三春城に移った。
 1619年(元和5)、田丸城は徳川御三家・紀州和歌山藩・徳川頼宣の所領するところとなり、家老久野宗成が田丸城に入り、代々久野氏が城代として明治まで続き、明治2年廃城となった。
 田丸城は城域が16万平方メートル余りの城址ですが、廃城後の明治4年、城内の全ての建物が払い下げ解体移築され、城地も御料林(国有地)に編入された。
田丸城の建物遺構は、「富士見門」と、紀伊徳川家領有時代に三の丸に置かれた御殿の一部である「奥書院」の二つだけと少ないが、この奥書院は約120年ぶりに玉城町に戻り、移築保存されている。