熊野那智大社---小口---請川  2006年10月07日〜09日 
今回は熊野古道中辺路のなかでも最も難関といわれる大雲取越、小雲取越に無謀にも挑戦しようと計画をたてた。帰りには熊野川川舟下りも一気に楽しもうと2泊3日で連休を利用して那智山から小口を経由して請川まで歩き、バスで竹田前まで来て、ここから川下りで新宮まで行くルートでその昔後鳥羽上皇が行ったのと順序は違うが同じ行程らしい。川下りの予約をするとき、「女性1人では大変ですよ。いい語部を紹介します。」と親切に助言していただき、今回は初めて語部さんと歩いた。足の爪(3週間前に中辺路、滝尻から発心門王子まで歩いた時の爪下出血)のことも心配だったし、歩き切れるか自信もなかったので、これで一安心。那智山から小口までをお願いした。
10月7日JR伊勢市駅を13時45分の電車に乗り、多気に14時8分着、多気14時19分発の南紀5号で紀伊勝浦に16時34分着。紀伊勝浦17時発の熊野交通のバスで那智山に17時28分着。あたりはもう薄暗かった。歩いてすぐの今夜の宿泊先美滝山荘で風呂に入り、夕食をとった。今夜は明日に備えて早く寝よう。窓を開けると那智の滝の音はするが、暗くて滝は見えなかった。語部さんは明日7時30分に宿まで来てくれる。
10月8日、今日は天気も申し分なく青空が広がり、古道歩きには絶好の日和だ。朝食は7時30分からなので、昨夜に作ってもらったおにぎりを1個食べ、残りの2個は昼食用に持参した。大きいので私には十分すぎる量だった。時間通り語部さんと宿前で会って、早速大雲取越に出発。階段を登って青岸渡寺、那智大社をお参りしたあと、青岸渡寺横の古道登り口の階段をひたすら登り始めた(写真) (8:20)。これだけでも息が切れる。階段はやがて石畳の登り坂となり、妙法山への分岐点を右にとって、那智高原休憩所についた(写真) (8:47)。小休憩をして登立茶屋跡に向かった。今日は紀伊の山々がくっきりと見える。こんなに晴れて遠くが見える日は少ないとのことだった。登立茶屋跡に9時45分に到着、ここからも石畳の登りが続き、10時39分に舟見茶屋跡展望台に着いた。ここで熊野灘の遠望を楽しみ、語部さんの説明を聞いて、20分ほど休憩した。ここまでは順調な歩きのように見えたが、これから先が苦手な下り坂。ここから林道合流点までは亡者の出会いというらしく、昔は昼なお暗き道だったらしい。世界遺産に登録されてからは伐採が行なわれ、今日は天気もよいので、そんな感じはまったく受けなかった。しかしやはり亡者が住んでいるのか、石畳のアップダウンを繰り返しているうちに、私の足に異変がおこった。爪下出血のところの爪を再び傷めるのではないかと心配していたが、今度は右膝に痛みが。今回の古道歩きに備えて、登山シューズを新しく買ったのだが・・・。若い頃骨折した左足をかばって右膝に負担がかかったのだろうか。古道は一旦林道に出るのだが、林道を歩くときは右足を引きずるようにしていた。
地蔵茶屋跡にやっと着いたときはほっとした(12時35分)。ここで昼食を食べ、ゆっくり休憩。ここの休憩所は地方の山持ちの寄付らしく、まだ新しく木のいい香りがしていた。ここで語部さんに右膝にテーピングをしてもらい13時20分地蔵茶屋跡をあとにして、石倉峠に向かった。登りはなんとか我慢できるが、下りになると膝が痛い。石倉峠に13時42分に到着(写真)。次は越前峠に向かってもう一頑張り。越前峠14時26分。この先がかの有名な胴切坂。右膝は痛むし、こんな状態でこの坂を下りれるのか、心配になってきた。一人なら本当に心細かったと思うが、語部さんと一緒なので安心できた。この頃には段々休憩の回数が増えてきて、坂の途中でも座り込んでしまった。苔むした石畳、石仏が何とも言えず趣があったが、それを楽しむゆとりもなかった。どんどん追い越していく健脚の人が羨ましい。若者が駈けるようにして坂を通り過ぎていくのを見てびっくりするやら、唖然とするやら。胴切坂の途中で語部さんが今晩宿泊する小口自然の家に携帯電話をして到着が遅くなることを伝えておいてくれた。語部さんとの話で気を紛らわせながら、鎮痛剤の助けをかりながらやっと16時36分に楠の久保旅籠跡に着いた(写真)
もう少しという語部さんの言葉に励まされ、円座石をめざして杖をつきながら、坂を下った。昔人の思いがちょっとわかったような変な気持ち。まさか自分がこんな目に会うとは思っていなかった。
円座石(わろうだいし)に着いたときはあたりは暗く石の模様もよく見えなかった(17:37)。このあたりから語部さんの懐中電灯を借りて進んだ。昔はたいまつをかざして歩いたそうだ。平成の時代でその気分も味わうなんてきっと貴重な体験だろう。小口の集落を過ぎて宿に着いたのはもう18時5分になっていた。歩行距離14、5km、約10時間弱にも及ぶ大雲取越になってしまった。語部さんこんな私に付き合っていただき本当にありがとうございました。
小口自然の家ではもう夕食が始まっていた。今夜の部屋は苦労した越前峠という名だった。夕食後風呂に入り、部屋にもどってほっとした。なんとか右膝の痛みが少しでも回復して、明日小雲取越を無事歩けますように。
2年前までは毎年大雲取越マラソンをしていたそうで、その最短時間記録はどれくらいだったと思いますか?何と1時間5分だそうです。この急な坂道をまさしく駆け抜けていったのでしょうね。私のような者にとってはただただ驚くばかりです。
  
翌日10月9日は朝7時20分、宿を出て、痛い足を引きずりながら、小雲取越、昼食もとらず請川から竹田前までバスに乗り、引き続き熊野川 川舟下りをして新宮17時28分発、南紀特急8号で多気に19時33分着。伊勢市駅には8時前に着いた。
家に帰ってそ〜と見たら、爪はどうやら悪化していないらしい。あ〜あよかった。筋肉痛はすごいけど、これなら3〜4日でなおるでしょう。

 

大雲取越・小雲取越
平安時代に都の人々によってはじめられた「熊野もうで」は、今日「熊野古道」と呼ばれる道を通って本宮、新宮、那智の「熊野三山」に参詣するものでした。田辺から東進して熊野本宮への山道の中「中辺路」を通り、本宮からは熊野川を小舟で下ってさらに、新宮、那智を巡拝したのち、北上し、大雲取小雲取の険路を越えて本宮へ戻り、都への帰路についた経過が、鎌倉時代の歌人、藤原定家の日記「熊野御幸記」に克明に記されています。
 
那智高原
那智高原は、大戸平と呼ばれる中辺路街道と色川街道が交差するところで、この地方では珍しい丘陵地であり、昭和52年に昭和天皇をお迎えし、第28回全国植樹祭が開催され現在の姿になりました。その後、休憩施設や遊具施設が完備し、誰でも森に親しみながら楽しく遊ぶことができる公園に生まれ変わりました。
 
登立茶屋跡
ここは「西国三十三所名所図会」に載っている茶屋の跡です。熊野詣の人々を癒してきたこの茶屋のことを地元色川地区の人々は昔から「馬つなぎ」と呼んでいました。茶屋は田辺からの日用雑貨、勝浦からの海産物を商う商店でもあったので、今の国道42号線が整備されるまで、この道は大坂、和歌山方面への唯一の幹線道路として広く人々に利用されていました。
平成11年3月  那智勝浦町教育委員会
 
舟見茶屋跡
ここは「西国三十三所名所図会」に載っている舟見茶屋の跡です。眼下には那智湾、右手に太地、左手に新宮・佐野方面が見えます。
「紀伊名所図会」には「山嶺より遠く海上を望めば嶋々の形態さながら刻むが如く、島かくれ行く帆船は恰も白扇を散らすに異ならず、その絶景筆紙に盡くしがたし」とあり、古の昔から風光明媚の地として知られていました。
 「幟たつ沖のけしきや舟見茶屋」    熊野   ○雨
平成11年3月   那智勝浦町教育委員会
  
越前峠
この峠をなぜか越前峠と呼びます。雲取越えの中でこの峠越えが一番の難所です。
建仁元年(1201年)十月後鳥羽上皇の熊野御幸のお伴ををした藤原定家は、この雲取越えを「廿日暁より雨降る松明なし、天明を待つの間、雨忽ち降る、晴れ間を待つと雖も弥注ぐが如し、仍て営出一里許り行く、天明風雨の間路窄く笠を取るに及ばず、蓑笠を着け輿中海の如く林宗の如し、終日嶮岨を超え心中夢の如し、未だ此の如き事に遇ず、雲トリ紫金峰手を立てるが如し、山中只一宇の小家あり右衛門督の宿也、予相替わりて其所に入り形の如く小食し了り、又衣装を出せば只水中に入るが如し、此辺に於て適雨止み了る、前後不覚戌時ばかり○○に著き寝につく、此路の嶮難大行路に過ぎ記す遑ある能ず。」と書きとめています。
世俗に『籠に乗る人担ぐ人その又草鞋をつくる人』と言いますが、歌人土屋文明はこの道を越え、右の記述を思いおこしたのでしょう。
「輿の中海の如しと嘆きたり 石をふむ丁(よぼろ)の事は伝へず」と詠んでいます。
丁(よぼろ)とは課役に召集された人足のことです。
            熊野川町教育委員会
   
楠の久保旅籠跡
昔は、この雲取越えの道を熊野詣の道者が列をなして通ったと聞きます。東国の人が多かったのでしょうか、巡礼姿の人を「奥州兵衛」と言ったそうです。
楠久保には道沿いに拾数軒の旅籠がありました。北に見える小雲取の桜茶屋を指差して、あそこまで宿屋がないからここに泊るようにと客引きをしたとも伝えられます。
或旅日記に(1747年4月)
九日・・・地蔵が茶屋、越前の茶屋有、山内林木の中を通る事久し、楠がくぼと云茶屋に宿候、山内所所の茶屋にも人を留候得共、米と焼火計にて夜具なし、此辺不自由成所にて候。
十日、夜の中より風雨甚、前路山峻く候故、逗留致候、猿多く山に出候、亭主馳走心にていろいろ致す体に候え共、干蕨の外は菜・大こんちさのるい一切無之、漸みょうがたけを煮候て、給させ候・・・略・・・としるされています。
ここ楠久保に人が住まなくなったのは昭和35年頃のことです。
                  熊野川町教育委員会
   
円座石    熊野川町指定文化財  
「わろうだ」とは、わら・すげ・いぐさなどをうずまき状にに丸く平たく編んだ「ざぶとん」のような敷物のことです。この巨石の表面の紋様をそれに見たたて名づけたものなのでしょう。
熊野の神々がそれに座って、お茶を飲んだり、色々の相談ごとをしたのだと伝えます。正面の梵字は、向かって右から
あみだ仏  本宮熊野坐大社の本地仏
やくし仏   新宮速玉大社の本地仏
かんのん仏 熊野那智大社の本地仏
を意味するもののようです。
制作年代は不詳ですが、多分旅の修験者の手によるものと思います。
                熊野川町教育委員会
   

 

滝山荘
〒649-5301和歌山県那智勝浦町那智山545-1
TEL  0735-55-0745
一泊二食付き税込み 8400円  
   
小口自然の家
〒647-1201 和歌山県新宮市熊野川町上長井
TEL 0735-45-2434
一泊二食付き税込み 7350円  
   
奈良交通 0735-22-6335
熊野交通 0735-22-5101
   
熊野川川舟センター
〒647-1212 和歌山県新宮市熊野川町田長57-1
TEL 0735-44-0987
    
伊勢市--紀伊勝浦(JR)  乗車券 2940円  
多気--紀伊勝浦(JR)    特急券 2610円
   
新宮--伊勢市(JR)  乗車券 2520円
新宮--多気(JR) 特急券 2290円
   
紀伊勝浦--那智山(バス)  600円
請川--竹川前(バス) 
熊野川川舟川下り 3900円