熊野本宮大社
   
熊野本宮大社は熊野三山(本宮、新宮、那智)の首位を占め、全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として広く世に知られている。御主神は宇都美御子大神(ケツミミコ)即ち素戔鳴尊(スサノウノミコト)で、御木を支配される神で、紀国(木の国)の語源もここから起こっている。大神は植林を御奨励になり造船の技術を教えられて外国との交通を開かれ人民の幸福を図られるとともに生命の育成発展を司られた霊神で、第十代崇神天皇の御代に熊野連(クマノムラジ)が当地に社殿を造営して鎮祭したと伝えられている。奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行しますます神威が広まった。延喜7年(約千年前)宇多法皇の御幸をはじめ約三百年にわたり法皇、上皇、女院の御幸は実に百数十回に及んだ。これが史上有名な熊野御幸(クマノゴコウ)である。これと前後して当時の神仏習合によって御主神を阿弥陀如来といって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者は全国各地から熊野の深山幽谷を埋め、「蟻の熊野詣」とか「伊勢に七度熊野に三度どちらが欠けても片参り」などとうたわれるとともに全国に御分社を祭り、その数は現在約五千数社を数えている。その後源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱とさまざまの変災の渦中にありながら、人心の信仰はますます高まり、当宮の神威は熊野牛王(ゴオウ)(おからす様)の神符とともに全国に伝播して明治時代にいたった。現在の社殿は享和二年徳川家斉将軍の命によって紀州候治宝(ハルトミ)卿が音無里(現本宮町大斎の原(オオユノハラ)(指定文化財)に建立されたが、明治23年の大洪水にあって現社地に修造して遷座されたものである。この社殿のつくり方を「熊野造」という。なおこの旧社地は別社地と呼び石祠二段を仮宮として西方に中四社、下四社を、東方に元境内摂末社を合祠してある。以上は境内の案内板より