奥村墳墓

 
この墓(宝筐印塔)の案内板によると奥村氏は北条氏の臣で、鎌倉幕府滅亡時、赤羽谷に落ちのび、前山的場あたりに拠を構え、当主は新之丞を名のり、紀北一帯に勢をはっていた。天正3年(1575)北畠勢に敗れてからはその勢力はおとろえてしまったらしい。宝筐印塔はもともと経塔として建てられたものが、中世以降、身分の高い人の墓地として建てられるようになったもので、当時奥村氏の地位が相当なものであったことを物語っている。