JR新宮駅---熊野那智大社  2006年05月13日-14日 雨のち曇り
JR新宮駅---阿須賀神社---浜王子---高野坂---佐野王子跡---小狗子峠---大狗子峠---浜の宮王子---曼荼羅のみち---
尼将軍供養塔---市野々王子---大門坂入口---多富気王子---熊野那智大社---青岸渡寺---那智大滝
JR新宮駅から王子ヶ浜、浜の宮王子を通って熊野三山の1つ熊野那智大社までのコース。大門坂を経て那智大社へ参ったあとは青岸渡寺、那智の滝へ。街中に残る王子社などの史跡を楽しみながら歩きます。
 
今回は新宮に一泊してちょっとハードだと思ったが,欲張って新宮から王子ヶ浜を通り、一気に浜の宮王子経由で熊野那智大社まで行く予定。あいにくの雨模様だが、宿も予約してあるし、切符も買ってあるので決行。
前日5月13日雨の中、午後からJRで新宮まで行き、駅近くのステーションホテル新宮に宿泊した。明日はスケジュールがきついので、今日のうちに少しでも歩いておこうと思い(写真)、阿須賀神社に行った(16:58) (写真)。阿須賀神社は熊野川河口近くにある蓬莱山南側の麓に鎮座する古社。熊野速玉神社と縁の深い神社で、事解男命(ことさかおのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)が祀られている。平安時代から「阿須賀王子」とされ、熊野詣の人が奉納した御正体(懸仏)約200面が社殿裏から出土したことからも、熊野信仰の重要な王子社だったことがわかる。徐福が最初に上陸したといわれる場所がこの蓬莱の丘とのことで、この神社の傍らには徐福の宮もあった(写真)
阿須賀神社を出て王子神社のほうへ向かうと宮井戸古蹟があった(17:10) (写真)。ここは太古は小島であったらしく時代は不明だが神社があったらしい。今は裏に大岩が残っているのみである。この岩に不動梵字と鎌倉時代に刻まれたものがあるとのことだが、雨の中薄暗くてよくわからなかった。海辺からは対岸に鵜殿の工場の煙突が見えた(写真)。途中から右折して、駅近くのレストランで夕食を食べ、今日はホテルで早く寝ることにしよう。
翌朝(5/14)早く起き、7時35分には古道歩きに出発。ガイドの地図は和歌山県の観光情報(http://wiwi.co.jp/kanko/walk/index.html)。迷いそうなところにはその部分の詳しい地図(自販機の位置まで)が載っていてコンパクトながらすごく助かった。昨日までの雨はなんとかやんでいたが、あまりいい天気ではない。途中新宮十郎行家(源義盛)屋敷跡案内板の前あたりで雨がぽつり、ぽつり(7:45)。市田川にかかる第一王子橋を渡り(写真)、王子神社(浜王子)には8時3分に着いた(写真) (写真)。浜王子は王子ヶ浜近くの古道脇にある神社で、海神をまつる古社である。祭神は神武天皇の皇兄2人とされている。文明5年(1473)の「九十九王子記」で初めてその名が見られる。熊野信仰の発展にともなって、熊野神の御子を祀る王子社として知られるようになった。
浜王子を過ぎ一度県道231号線を横切って王子ヶ浜へと向かう松林の間を通って(写真)海の見える浜辺に出た(写真) (8:11)。この頃には雨はやんでいた。最初は堤防沿いに歩けたが、やがて堤防がなくなり、砂浜を歩かなければいけなかった。この浜辺では亀が産卵するらしい。浜辺は所々雨が降ったため川状に水が流れていて歩きにくかった。この時犬の散歩で浜辺を歩いている中年の御夫婦と出会い、色々話をしながら、結局次の目的地、高野坂の入口まで案内してもらった。この先、歩道のない交通量の多い国道42号線を歩かなければいけないのでそこだけでもバスでいったらどうかとありがたいアドバイスも受けた。地図だと浜辺を歩いて高架をくぐり、高野坂入口に出るのだが、歩きにくいからと途中からJRの線路沿いに案内してもらい、最後に線路を渡って高野坂入口に出た(8:44)。ここでこの親切な御夫婦に別れを告げ、先を急いだ。本当にありがとうございました。
高野坂入口(写真)には案内板もトイレもあった。高野坂は広角(逆川さかがわ)から御手洗の海辺の台地を越えるルートで、石仏や石畳、休憩所や展望台などがあり、三輪崎(塩屋川)に至る延長1.5km程の短い区間ではあるが、往時の面影をよく残している。御手洗の念仏碑(8:52)、五輪塔(9:07)、孫八地蔵(9:11)を過ぎ、金光稲荷神社(9:16)に到着した。坂道には所々石畳も残っていたが、数日来の雨でやはり水が流れていて、転倒しないようにゆっくり、ゆっくり登った。五輪塔は脇道にそれていくが、それほど遠くなかった。金光稲荷神社前には東屋があり、そこで一休憩したいところだったが、私の姿を見て、どこからか「ミャオ〜」と猫が現れ付いてきた。下手に腰をおろして休んでいて、飛びつかれたら大変とそのまま歩いて先を急いだ。展望台は脇道にそれて少し歩かなければいけないので、猫にも追いかけられていることだしパスした。高野坂出口に着いたのは9時32分。標識にしたがい一般道に出た。後方に走っている国道42号線をあとに(写真)三輪崎踏切を渡り(写真)、JR三輪崎駅に到着(写真) (9:41)。ここで休憩中に人身事故のため新宮、三輪崎間の列車が不通との情報が入った。無人駅だが、駅構内に放送が流れていた。帰るころには大丈夫だといいが・・・午後から一度JRに電話して確認しなければ。三輪崎の集落で少し迷ったが、地図と案内標識が要所、要所に出ており、大した間違いはなかった。集落内の宝蔵寺に寄り(写真)、三輪崎をあとにして国道42号線に出た。海に出て新宮港が見えた。昔は海運業で栄えたのだろうか。そういえば三輪崎にすごくりっぱな家があったっけ。
国道42号線もこのあたりは歩道もあり歩きやすかった。やがて大きな郊外型のショッピングセンターが見えてきた(写真)。ユニクロやライトオン、オークワもあった。ファストフードの店も数件あり、ちょっと早かったが、ケンタッキーでハンバーガーを食べ、誰も客のいない店内でゆっくり休憩できた。ここで英気を養ってさあ次へ。この郊外型ショッピングセンターのすぐ横に佐野王子跡があった(1100)。明治に廃社となっていて、今は国道沿いに地蔵(写真)、石碑等があるのみだった。すぐ佐野川を渡るが、このあたりから国道の歩道がなくなり、道も狭くなった。しかも交通量も多く、トラックが通るときなどは思わず隅に身をすくめなければいけなかった。王子ヶ浜で出会ったあの御夫婦の言葉が思い出された。注意しながら歩きJR宇久井駅に来た(写真) (1118)。国道沿いにあるが、うっかりすると見逃しそうな無人駅だった。さらに交通量の多い国道をびくびくしながら進むこと20分弱、ようやく小狗子峠北口の標識を国道沿いに見つけることができた(写真) (1129)。このときは正直ほっとした。右折して高津気踏切を渡ると道標があり(写真)、これにしたがって高台の住宅の方に向かっていった。この道標が前にも書いたように要所要所にあり、歩いている間の指標、心の支えとなった。山の中の駐車場の裏の狭い道を行くと小狗子峠の登り口だ(1141)。雨のため山道はぬかるみ注意していないと滑りそう。数分で頂上の切り通しに着いた(1148)。短い峠で助かった。下りの山道からは熊野灘が見渡せた。この頃から雨もすっかりあがり、日が照りはじめた。一度海沿いに走る国道沿いを歩き、大狗子トンネルの手前で斜め左に入り、大狗子旧トンネルのすぐ手前を左に山の方に登る道が大狗子峠登り口だ(1206)。ここにも道標あり。ぬかるんだ山道を行くと大狗子峠頂上付近の切り通しにじき到着(1211)。大狗子峠はかなり道が荒れていた。峠を下り再び国道42号線を海沿いに歩いた。ここも歩道がなく注意して歩かないといけない。しばらく歩いて国道を右折して古道に入った(写真) (1241)。そして次の目的地浜の宮王子に着いた(庚甲の碑 写真) (1248)。海側に行くとJR那智駅に行く。

浜の宮王子は熊野三所大神社の一つで、熊野詣の人たちが潮垢離(海水を浴びて身を浄める)をして熊野権現を遥拝し、休憩、あるいは宿泊していた所である。境内は470坪、杉や楠の古木が森を作り、風格ある神社である。境内の左手に「神武天皇頓宮跡」と刻まれた石碑があり、神武天皇神話の「熊野神邑」への上陸地がここであることを示している。社殿の側には神武天皇の熊野入りに抵抗した土地の豪族、丹敷戸畔もお祀りしている。

境内の左手には補陀洛山寺(世界遺産)があり、参拝客が数人寺内にあがっていた。仁徳天皇の御代(313399)に印度より裸形上人が熊野灘に漂流し開かれたという天台宗のお寺である。熊野の浜は遠く黄泉の国へ通ずるという海上信仰があり、この地は補陀洛渡海の地として知られていた。補陀洛山寺は補陀洛信仰の根本道場であり、浜の宮は渡海のための船出、とも網を解く所、出帆する場所であり、寺はその儀式を行うところであった。神社と寺が並びあって同じ境内にあるのは、いかにも日本らしく思わず苦笑いしてしまった。ここで一休みして今度は那智大社に向かってもう一頑張り。
補陀洛山寺の前の県道43号那智勝浦古座川線を山の方に進み、途中地図に従い2度旧道に入り(写真) (写真)、那智山をめざした。途中県道沿いの庚甲の碑(写真)、五輪塔(写真)を見、瀧麓橋を左手に見て、曼荼羅のみちへの入口という標識のあるところを右折(写真) (1328)。この頃には日差しが強くなり、汗をかき始めた。地図と道標に従い山道へと入っていった(写真)。ひんやりして気持ちいいが、足元はぬかるんで、注意を要する。そろり、そろり。杉林、竹林の登りの地道を行くとやがて広場に出た(1349)。この一隅に尼将軍供養塔があった。尼将軍は源頼朝の室、平の政子の揮名で頼朝の没後、頼家、実朝の後見者として、まつりごとをみた女性。頼朝夫妻は熊野信仰が厚く那智山の社寺も建立した。
曼荼羅のみちを下りると、ふだらく霊園に出た(13:54)。坂を降り霊園の入口に着くと、その横には荷坂の五地蔵があった(写真) (14:00)。
この地蔵は平弥平衛門宗清が石屋の弥陀六と名を替えて、一の谷の合戦で亡くなった笛の名手、平敦盛(清盛の弟、経盛の子16才)を供養するため作ったと伝えられている。
しばらく旧道の家々の間を歩いた。市野々の集落では(写真)市野々王子に立寄った(写真) (14:12)。市野々は「市をなしたる地なるべし」という記述が残っているところから、那智山参詣者をあてにした市がたったことによる命名なのであろう。境内右手に、柱を一本も使用していない石積み構造の郷倉跡がある。これは那智山の神領であったこの地の貢米を保管していたものであろうといわれている。
さらに集落内を進み、庚甲の碑(写真) (14:21)、お杉社(写真) (14:21)、宝泉寺(写真) (14:24)を過ぎて二ノ瀬橋を渡ると(写真) (14:34)大門坂はもうすぐだ。
お杉社には、天照大神と御子の忍穂耳尊(おしほみのみこと)「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父」と葺不合尊(ふぎあえずのみこと)「神武天皇の父」の三神が祀られていた。神話で天照大神から瓊瓊杵尊が八坂瓊玉(やさかにのたま)及び八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神器を賜った話で知られる神々である。
旧道から一度県道43号線に出てすぐに大門坂入口を左折した(写真)(14:41)。新宮藩の関所跡(写真)、南方熊楠が滞在したという大阪屋旅館跡(写真)、大きな鳥居を過ぎて(写真)、石畳の道が続く大門坂へと登っていった。そのふもとには店があり、平安時代の貸衣装を着て写真を撮るという企画もあった。3000円ぐらい。ちょうど2人の女性が衣装を着て石畳を降りてくるところに出会ったが、降りにくそう(写真)。でも風情があっていい。「今度は私も着てみたい」と思った。ふもと近くに夫婦杉(写真) (14:48)、多富気王子跡(14:50)があり、石段は延々と続いていた。楠の大樹を過ぎ石段を登り終えたのは15時11分。やはり古道最後の石段だけあり、幅も広く立派。何より静けさの中に荘厳な雰囲気が漂い、やはりピカイチの古道だった。ちょうど観光客のとぎれた時があり、この雰囲気を独り占め、ゆっくりと杉林と石段の中ではるか昔に思いを馳せ、自然を満喫した。
熊野道は昔那智山は都より山川80里、往復1ヶ月の日数をかけた参詣道で熊野九十九王子としてしても知られた往時の歴史を偲ぶ道でもある。この熊野道の最後、大門坂は那智山麓から熊野那智大社への旧参道で、「日本の道百選」にも選ばれている。石畳敷の石段は267段、その距離約600m余、両側の杉並木は132本で、他に老楠が並び、入口の老杉は夫婦杉と呼ばれ、幹周り8.5m余、樹高55m余、樹齢約600年程と推定されている。途中熊野九十九王子の最後、多富気王子跡がある。この所に大門があったので「大門坂」と呼ばれている。多富気王子は熊野古道最終の王子で上皇や高貴な人々の祓所であった。また、「紀州続風土記」には地元の人たちは乳が余るとしぼってここに預けたと伝えている。
石段を登り終え、駐車場脇を通って実方院跡で一休み。ところ天を食べ、ここでJR那智勝浦駅に連絡したら、列車は平常どおりとのこと。ここから両側にみやげ店が並ぶ石段を登り、那智山青岸渡寺(15:39)、熊野那智大社に着いた。この両者もやはり隣り合わせにあった。
那智大社でも平安衣装の貸し出しをしていてびっくり。出店ではなく神社そのものが貸し出しをしている(神社の札を売っている人が言っていたから間違いないと思う)。青岸渡寺は古びた木造の造りだが、那智大社は赤い鮮やかな建物だった。やっと着いた那智大社。今日までの長い道のりを思うと思わず「やった〜」と叫びたくなった。昔の人の思いがほんのわずかだがわかったような。記念に夫婦のお札を買った。
熊野那智大社は熊野速玉大社、熊野本宮大社とともに熊野三山のひとつで、滝を神とする原始信仰からおこった社で、社殿はもともと滝のそばにあった。主祭神は夫須美大神(いざなみのみこと)、万物の生成と育成をつかさどる神とされる。また国造りの神であるオオクニヌシノミコトを鎮守にいただくく。中に洞穴があり、無病息災を祈って胎内くぐりをする人も多い。現在の本殿は江戸時代に大改装されたものである。
那智山青岸渡寺は西国三十三所の第一番札所として知られ、古くは如意輪堂と呼ばれていた。印度より裸形上人ら7人が熊野浦に漂着、裸形上人だけが残り、熊野各地で修行していた。那智の滝で滝修行をした折、20cm余の観音像を見つけ、これを草庵に安置したことがお寺の開山といわれている。現在の建物は、天正18年豊臣秀吉によって創建されたものである。
ここから那智の滝に向い今日の古道歩きの最終章。三重塔では那智の滝が滝壷まで見れるというので上がった(15:56)。入場料200円、エレベーターで上まで上がれるので楽ちん。上は金網がはりめぐされていたが、滝の方向だけは写真に網が写らないように一部くり抜いてあり、なんと言う心配り。ここから滝前バス停まで歩いて降りるのだが、のんびりしすぎて予定のバス出発にギリギリとなってしまった。飛瀧神社から(写真)滝を間じかにみる時間がなくなってしまった。以前家族で来たことがあるから今日は省略しよう。この奥に二の滝、三の滝、那智原生林もあるそうだからこの次の機会に訪れよう。
滝前から熊野交通のバスでJR那智駅まで行き、17時2分発普通列車新宮行きに乗り、新宮からは南紀特急8号(17:19発)で多気まで行った(19:26着)。多気19時38分発で伊勢市に着いたのは19時58分。
ところでJR那智駅は無人駅なのに造りはりっぱで(写真)、那智大社を思わせる色使いで、おまけに続き隣には立ち寄り湯(600円)に立派なみやげ売り場、休憩所もあった。時間があれば帰りにちょっと一風呂もいいですね(写真)。高野坂、小狗子峠、大狗子峠、曼荼羅のみちと低いながらも4つの峠を越え、総距離22km余の今回の古道歩き。これで今回も無事予定通りのコースを歩けて健康に感謝、そして王子ヶ浜を案内していただいた御夫婦に感謝。