積川神社の鳥居 2008.1

   
鳥居の御由緒略記
この鳥居はこの地より東約五kmに位置する罪川神社の鳥居で、当神社は第十代崇神天皇の御代に現積川町に創立され、延喜式内社で和泉五社に列し歴代天皇の勅願社として又武将の崇敬も厚く、天正の頃迄社領六百石を有する格式の高い神社でありました。寛治四年、白河上皇が熊野へ御幸の途、熊野街道のこの地から神社を遥拝され芝草を積んで草舞台をしつらえ、舞楽を奏されたとき、鳥居に掲げられた扁額の筆蹟が拙いのをご覧になり、親しく筆を執られて「正一位積川大明神」の八字を大書され、これに代えられたと伝えられています。その額は神社の社宝として積川神社に今も保存されており、現在の「額」は鳥居新調に伴いその扁額を模写したものであります。
額の地名の由来
積川神社の氏地は、旧山直上村・山直下村・八木村・北掃守村の四ケ村(牛滝川に沿って磯之上迄)でした。そこで遠方の氏子の人達の為に、中間点に当るこの地から朝夕積川神社を遥拝し農作物の豊穣と家内安全を祈願しました。この地は、熊野街道に面している為、熊野参詣をする皇族・公家の方々がこの地から勅願社である積川神社を遥拝され旅路の安全を祈願されました。寛治四年、白河上皇が熊野御幸の為この鳥居に扁額を掲げられ、この「額」と人々がこの地で「額づく(拝む)」という二つの事から、この地を額と名付けられ、以来今日迄額と言う地名で呼ばれています。  
お神輿の御渡(おわたり)
積川神社の御旅所は昔は浜辺に在りましたが、岸和田城主が入城されてからこの地の遥拝所に移されました。毎年神社の祭典が終わると神霊を、お乗せした神輿が御旅所へ「おわたり」するのが習わしで、この時遠方の氏子の人達がこの地に集まって、神霊にお参りします。このように神霊を安置する場所を御旅所と言います。

案内板の説明より