曽根次郎坂・太郎坂  2004.09
猪垣記念碑
ここの猪垣は熊野地方でも群を抜いて見事なもので高さは約2〜3mある。ここでは他の地域では見られない猪垣記念碑があり、寛保元年(1741年)3月上旬から翌年の2月までの1年がかりで築いたと記されている。すぐ近くには「猪落とし」と呼ばれる縦横3m、深さ3mの落とし穴が築造され、今も形が残っている。その上に木の頑丈な門を取り付けて、通行以外は必ず閉めるように固く守られていたという。
行動範囲は広く何でも食べる猪は、大食漢のうえ繁殖力も強く、昔から人間にとって厄介な動物だった。たった1頭で畑1枚をわけなく掘り尽してしまうほど馬力も強い。営々と築かれ、壊れても修復され続けてきた猪垣は、猪と戦い続けてきた人間の汗と涙の結晶でもある。
食料増産が至上命題であった戦時中の昭和20年前後はこの猪垣の下まで開墾され、イモ類や麦が作られた。その後昭和30年代後半になってミカン栽培が全盛期を迎えたが、高度成長期にはいって作る人も減り、今ではほとんどが荒れてしまった。