滝尻---継桜王子---発心門王子---熊野本宮大社  2006年09月16日〜18日 雨時々曇り
 西の方から熊野本宮大社へ行く古道、中辺路を滝尻から継桜王子を経て熊野本宮大社まで一気に歩こうと2ヶ月ほど前に計画を立てた。ところが台風13号が沖縄から九州に接近。近畿地方は台風の進路からは外れるものの秋雨前線を刺激して大雨の恐れがあるとのこと。天気予報では17日、18日は雨。行くべきか、行かざるべきか?迷いに迷ったあげく、途中で諦める覚悟で、とりあえず現地に行くことにした。
平安時代から江戸時代にかけて、多くの参詣者でにぎわったといわれる熊野古道「紀伊路」は、京都から淀川を下り、大坂窪津から陸路を南下、和歌山、田辺を経て紀伊山地に分け入り、熊野三山に至った。このうち、田辺から本宮、新宮、那智に至る山岳路が、のちに「中辺路」(なかへち)と呼ばれるようになり、特に平安時代から鎌倉時代に皇族貴族が延べ100回以上も繰り返した「熊野御幸」では、中辺路が公式参詣道(御幸道)となった。
16日近鉄で鶴橋まで行き、ついでJRで天王寺径由でスーパーくろしお21号で紀伊田辺に着いた。紀伊田辺は初めて来る町だ。駅前道りを真直ぐ行くと予約してあるアルティエホテルに歩いて5分ぐらいで着いた。部屋は狭いが小奇麗で、泊るだけなら十分だった。夕食は銀ちろという和食屋で定食を食べた。天気予報では明日は15時ぐらいから雨らしい。それまでに歩き終えるといいのだが・・・
17朝8時紀伊田辺駅発JRバスで滝尻まで行った。滝尻に着いたのは8時40分。熊野古道館に立寄って、滝尻王子宮に参り、中辺路の山道にいよいよ入った(8:58)。するといきなり石段の急な坂道。息が切れたが、まだ疲れもない朝のうちだったし、途中に胎内くぐり、乳岩などの見所もあり、休みながら歩いたので、あまり苦にならなかった。
30分ほどで不寝王子跡に着き、ここからさらに急な坂を登り、剣ノ山経塚跡跡にたどり着いた(10:00)。少し行ったところの展望台で紀伊の山々を眺めながら一休み。ここから下り坂をゆっくり歩き、再び登り坂を通り、針地蔵尊を過ぎて、階段状の登り坂にさしかかり、民家の横を通って高原熊野神社に着いた(11:01)。少し先の高原霧の里休憩所でおにぎりの昼食をとった。ここには皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻が当地を訪れたときの写真が飾ってあった。そういえば、滝尻王子にも皇太子記念樹の碑があった。ここから近露王子までの約11kmは山中で、交通機関は勿論集落もなく、緊急の場合には連絡もとれない地域だとのこと。飲料水の確保を休憩所でして、再び歩き始めた。石畳の登り道の両側に旧旅籠が並ぶ通りを過ぎて山道へと入っていった。最初は苔むした石畳の登り坂だったが、やがて山道に変わっていった。高原池を過ぎると山の中にある大門王子に到着(12:04)。さらに杉林の中の山道を行くと十丈王子に着いた(12:33)。小判地蔵(12:45)を過ぎた頃にはあたりに靄がたち込め、だんだん雲行きが怪しくなってきた。悪太郎屋敷跡(12:52)を過ぎ、急な登り坂を登って上田和茶屋跡に着き(13:24)、ここからは下り坂。三体月の伝説の案内板を見て、幅の狭い下り坂を下りると大坂本王子に着いた(14:16)。このあたりから雨は本格的に降り始め、あたりは暗くなってきた。道は下りにさしかかり、滑りはしないかと神経を使って疲れも貯まってきた。でももう少し。箸折峠の牛馬童子で寄り道をして(14:55)さらに急な石畳の坂を下り、やっと近露王子に着いた(15:19)。ここで20分ぐらい休憩。その後一段と激しく降りしきる雨の中を継桜王子のある野中に向かった(15:37)。ここからは距離にして3kmぐらいだそうだ。ここまでは古道を歩く人にも時々出会ったが、ここから野中までは誰にも会わなかった。最初は集落の中を通っていたが、やがて山道へ。雨の降る山道は余計に疲れる。比曽原王子を過ぎ(15:37)、やっと今日の目的地、継桜王子社に着いたのは16時45分だった。雨が激しく傘をさしても写真が撮れなかった。この隣にある「とがの木茶屋」が今夜の宿。着いたときは靴の中も服もぐっしょり。宿は古い萱葺きで趣はあるが、なんだかちょっと薄気味悪く決して快適とはいえなかった。私の他は女性2名連れの客だけだった。それでも食事は囲炉裏を囲んで数品の夕食とまずまずだった。明日は同宿泊者と行く先が同じなのでご一緒させていただくことにした。でも宿の主人にたずねたら、「この雨では明日は古道歩きは無理だ」といわれちょっとがっかり。明日になってからどうするか考えることにして今夜はとにかく早く寝よう。

 

 

案内板に書いてあったものです。
   
滝尻王子 Takijiri-oji
この王子社は岩田川(富田川)と石船川が合流する地点にあり、ここから本宮まで厳しい山道になります。天仁2年(1109)に熊野参詣をした藤原宗忠は十月二十三日に水を浴びて禊をした後に、この王子社に参詣していますが、日記に「初めて御山の内に入る」と書いているように、滝尻からが熊野の霊域とされたのです。承安4年(1174)に藤原経房がこの王子に参拝したときには、社殿で巫女が里神楽を舞い、建保5年(1217)の後鳥羽上皇と修明門院の参詣の際には、両院が馴子舞に興じているように、色々な芸能が奉納されました。特に有名なのは後鳥羽上皇が歌人を随行させたときにはこの王子社の宿社で歌会を開いたことです。建仁元年(1201)に藤原定家が随行した際に、めいめいが和歌を書いた「熊野懐紙」は一枚も残っていませんが、前年の正治2年(1200)のものは十一名の分が伝来しており、そのすべてが熊野古道館に展示してあります。鎌倉末期以降、熊野の御子神五所を祀る五躰王子の一つとされ、室町時代にもそのように呼ばれていますが、三栖(田辺市)から塩見峠越えで栗栖川へ通じる道が多く利用されるようになると衰退しました。明治時代には村内の寺社を合祀して十郷神社と呼ばれましたが、現在は滝尻王子宮十郷神社と称しています。
田辺市教育委員会
  
胎内くぐり
熊野への道が塩見峠越えに改まって、室町時代から、この険ノ山を登る参詣者はいなくなった。しかし土地の者は、春秋の彼岸に滝尻王子に参り、そこで竹杖を持って山路を登り、ここの岩穴をくぐって、山の上にあった亀石という石塔に参ってきたといわれる。この岩穴を抜けるのを胎内くぐりといい、女性がここをくぐれば安産するという俗信がある。
   
乳岩
むかし奥州の豪族、藤原秀衡が夫人同伴で熊野参りに来たとき、ここで夫人が急に産気づき、この岩屋で出産したという伝説がある。夫妻は赤子をここに残して熊野に向かったが、その子は岩からしたたり落ちる乳を飲み、狼に育てられて無事だったので、奥州へ連れ帰ったと伝えられている。その子が成長して、秀衡の三男の和泉三郎忠衡になったという話まである。
 
不寝王子跡 Nezu-Oji remains
中世の記録にはこの王子の名は存在しません。王子の名が載せられているのは、江戸時代、元禄年間頃に著された「紀南郷導記」です。これにはネジあるいはネズ王子と呼ばれる小社の跡があると記され「不寝」の文字があてられています。この頃すでに跡地となっていたようで、またネズの語源も明らかではありません。江戸時代後期の「紀伊続風土記」では、「不寝王子廃趾」となっており、今は滝尻王子社に合祀されていると記されています。
    
剣ノ山経塚跡
ここ剣ノ山の上は、古くは神聖な場所とされていた。ここから熊野本宮へかけて九品の門が建ち、ここには最初の下品下生の門があったといわれる。この経塚跡は、経典を経筒に入れ、それを壺に納めて、地中に埋めた所である。明治末期に盗掘され、ここから出た常滑製の壺だけが、今古道館に展示されている。滝尻王子の社前にある笠塔婆という石塔も、もとはここにあったようで、経塚の上に立っていたと推測される。
   
大門王子跡 Daimon−Oji remains
この王子は、中世の記録には登場しません。王子の名の由来は、この付近に熊野本宮の大鳥居があったことによるものと考えられます。鳥居の付近に王子社が祀られ、それにちなんで大門王子と呼ばれたのでしょう。天仁二年(1109)に熊野に参詣した藤原宗忠は、この付近の水飲の仮屋に宿泊しており、建仁元年(1201)に参詣した藤原定家も、この付近の山中で宿泊しています。江戸時代になって、享保七年(1772)の『熊野道中記』に、「社なし」としてこの王子の名が見え紀州藩は享保八年(1723)に緑泥変岩の石碑を建てました。この王子碑と並んで、鎌倉時代後期のものとされる石造の笠塔婆の塔身が立っています。以前には松の大木がありましたが枯れてしまい、その後朱塗の社殿が建てられて、この王子跡付近の様相は一変しました。
   
重點(十丈)王子跡 Jyuten(Jyujyo)−Oji remains
この王子社は十丈峠にあり、現在は十丈王子と呼ばれています。しかし、平安・鎌倉時代の日記には、地名は「重點」、王子社名は「重點王子」と書かれています。天仁二年(1109)十月二十四日、藤原宗忠は熊野参詣の途中、雨中に重點を通っています。重點王子の名は、建仁元年(1201)十月十四日、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記に初見しています。まだ、承元四年(1210)に、後鳥羽上皇の後宮・修名門院の参詣に随行した藤原頼資も、四月三十日に「重點原」で昼食をとり、この王子に参詣しています。江戸時代以降、十丈峠、十丈王子と書かれるようになった理由ははっきりしません。かつてこの峠には、茶店などを営む数軒の民家があり、明治時代には王子神社として祀っていましたが、その後、下川春日神社(現、大塔村下川下春日神社)に合祀され、社殿は取り払われました。
   
小判地蔵
この小判地蔵は、飢えと疲労のために、小判をくわえたまま、ここで倒れたという巡礼を弔って、まつられたものである。地蔵には「道休禅定門」という戎名が彫りつけてあり、豊後国(大分県)有馬郡の人であったことがわかる。多分伊勢と熊野に参って紀三井寺へ向かう途中、嘉永七年(1854)七月十八日に亡くなり、その死を哀れんで、この地の愛洲氏が主になって、地蔵を建てたのである。
   
悪四郎屋敷跡
十丈の悪四郎は伝説上の有名な人物で、力が強く、頓智にたけていたといわれる。悪四郎の「悪」は、悪者のことではなく、勇猛で強いというような意味である。江戸時代の『熊野道中記』の一書に十丈の項に「昔十丈四郎と云者住し処なり」とあり、それがここだと見られている。背後の山が悪四郎山(782メートル)で、ここから約三十分で山頂へ登ることができる。
   
上田和茶屋跡
この山上は上田和と呼び標高六百余。熊野詣での盛んな頃はここに茶店もあったといわれ大正期にも人家があって林中には三界万霊塔やお墓もある。またこの山上には霜月二十三日の夜になれば、東方はるかに三体の月が現れるとて、ここにあったしめ掛け松のもとに大勢集り栗やひ黍の餅を供え、心経をくり月の出を待ったという。三体月は熊野権現垂迹の伝承の中にもみられる。
   
三体月の伝説
今は昔、熊野三山を巡って野中近露の里に姿を見せた一人の修験者が、里人に「わしは十一月二十三日の月の出たとき、高尾山の頂きで神変不可思議の法力を得た。村の衆も毎年その日時に高尾山に登って月の出を拝むがよい。月は三体現われる。」半信半疑で村の庄屋を中心に若衆連が、陰暦十一月二十三日の夜高尾山に登って、月の出待った。やがて、時刻は到来、東伊勢路の方から一体の月が顔をのぞかせ、アッというまにその左右に二体の月が出た。三体月の伝説は上多和、悪四郎山槇山にもある。
   
大坂本王子跡 Oosakamoto−Oji remains
大坂(逢坂峠)の麓にあるところから、この王子社名が付いたようです。天仁二年(1109)十月に熊野参詣をした藤原宗忠は、この坂を「大坂」とし、「坂中に蛇形の懸かった大樹がある。昔、女人が化成したと伝えられる」と、日記に書いています。建仁元年(1201)に後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家は、十月十四日にこの王子に参拝しています。また、承元四年(1210)に、後鳥羽上皇の後宮・修名門院の参詣に随行した藤原頼資も、四月三十日にこの王子に参拝しています。江戸時代には「大坂王子」「相坂王子」とも記され、寛政十年(1798)ごろには小社がありました。現在、跡地にある石造の笠塔婆は鎌倉時代後期のもので、滝尻王子(もとは剣ノ山の上)や大門王子などにも同様のものがあります。
   
箸折峠の牛馬童子
箸折峠のこの丘は、花山法皇が御経を埋めた所と伝えられ、またお食事のさいカヤの軸を折って箸にしたので、ここが箸折峠、カヤの軸の赤い部分に露がつたうのを見て、「これは血か露か」と尋ねられたので、この土地が近露という地名になったという。ここの宝筐印塔は鎌倉時代のものと推定され、県指定の文化財である。石仏の牛馬童子は、花山法皇の旅姿だというようなことも言われ、その珍しいかたちと可憐な顔立ちで、近年有名になった。そばの石仏は役ノ行者像である。
   
近露王子跡 Chikatsuyu−Oji remains
永保元年(1081)十月、熊野に参詣した藤原為房は、川水を浴びた後、「近湯」の湯屋に宿泊しています。王子社の初見は、藤原宗忠の日記、天仁二年(1109)十月二十四日条で、宗忠は川で禊をした後、「近津湯王子」に奉幣しています。このように、古くは「近湯」「近津湯」とありますが、承安四年(1174)に参詣した藤原経房の日記以降は、「近露」と書くようになります。建仁元年(1201)十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記によれば、滝尻についで、近露でも歌会が行われています。定家は、川を渡ってから、近露王子に参拝していますので、上皇の御所は右岸にあったようです。承元四年(1210)、修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記でも同様で、女院は四月二十九日に宿所に着いて「浴水・禊」をし、翌五月一日に王子社に参拝しています。このように、近露では宿泊することが多く、川水を浴びた後、王子に参拝するのが通例でした。江戸時代には、岩一王子権現社と呼ばれ、木像の神体が安置されていたようです。明治時代には王子神社となりましたが、末期に金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。なお、跡地の碑の文字は、大本教主出口王仁三郎の筆によるものです。
   
王子碑の文字について
「近露王子之跡」と書かれた碑の文字は、記名がないけれども大本教主出口王仁三郎の筆跡である。昭和八年(1933)三月二十一日この地に来て休息した際、当時の近野村長横矢球男の依頼で用紙に筆をふるったのである。翌年一月それを彫りつけた王子碑が建立されたが、二年後の昭和十年十二月大本教は二回目のはげしい宗教弾圧をうけ、この碑も取り壊さねばならぬことになった。その時横矢は、この文字は筆跡を自分が模写したものであると主張し、保存していた王仁三郎の書を警察に提出した上で、碑面に見られた「王仁」の署名を削り、そこに「横矢球男謹書」と彫り改めて、王子碑の撤去をまぬがれたという。出口王仁三郎の筆跡の碑は全国に数多く建てられていたが、他はことごとく破壊され、辛うじて残ったのはここだけだとされている。
     
熊野古道 近露伝馬所跡
この付近は近露道中といわれ、熊野街道の宿場としてにぎわった所で、江戸時代には十軒近くの宿屋があり、伝馬所もここ(丹田家)に設けられていた。伝馬所は、紀州藩が官吏の通行の便宜と公用の文書・荷物の逓送のために設置した役所で、ここ近露伝馬所には馬が十二頭常備され、人足は地区民が交代で出て、西は逢坂峠・十丈峠を隔てた高原、東は比較的近い野中との連絡にあたった。歌人加納諸平が天保初年近露に泊まって、「駅長竹の小筒を吹くからに山のかひこそ声あはせけれ」という和歌を詠んだが、夜中に逓送しなければならぬ至急便がきて、伝馬所の長が竹筒を吹いて人足を呼んでいるのである。人足を呼ぶ合図にはほら貝を吹くこともあった。
   
比曾原王子跡 Hisohara−Oji remains
藤原宗忠が熊野に参詣した天仁二年(1109)には、近露王子から中川王子までの間に王子社は見られず、この王子はそれ以降に出現したとみられます。建仁元年(1201)十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家は、近露王子について「ヒソ原」王子に参拝しています。また、承元四年(1210)四月、修明門院に随行した藤原頼資も、近露王子についで「檜曾原」王子に参拝しています。鎌倉時代末期の『熊野縁起』(仁和寺蔵)以降は、比曾原王子と書かれますが、早く荒廃したようで、紀州藩は享保八年(1723)に縁泥片岩の碑を建てています。現在は、この石碑から跡地を偲ぶのみですが、『紀伊続風土記』には、かつて境内に「手枕松」という名木があったという伝承を載せています。明治末期に石碑だけの比曾原王子神社として、金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。
   
継桜王子 Tsugizakura−Oji
藤原宗忠は天仁二年(1109)十月に熊野に参詣した際、「道の左辺に続桜の樹があり、木は檜で枝は桜」と、日記に記しています。檜を台木とした桜が成長していたものとみられた。建仁元年(1201)十月に後鳥羽上皇に随行した藤原定家の日記、あるいは承元四年(1210)四月、修明門院に随行した藤原頼資の日記には「続桜」王子とありますので、鎌倉時代にはこのめずらしい木の傍らに王子が出現したようです。ただし、藤原宗忠の参詣記では、仲野川(現、野中川か)を何度か渡るように記していますので、この王子社はその後現在地に移されたことも考えられます。江戸時代には若一王子権現とも呼ばれ、また、社前の桜樹は「接桜」、更には「秀衡桜」ともいわれて名木となっていました。王子社から約百メートル東にある現在の秀衡桜は何代目かにあたり、明治中期に植えられたものです。明治時代には王子神社となり、末期に近露の金比羅神社(現、近野神社)に合祀されましたが、社殿は残り、後に神体も戻されました。境内にある九本ほどの杉の大木は、熊楠らの保存運動によって残され、現在はこの神社に奉納される「野中の獅子舞」とともに、建の文化財に指定されています。
   
「秀衡桜」と奥州「平泉」の関係について
「秀衡桜」はその名からも、奥州「平泉」(岩手県)に栄えた藤原秀衡公にちなむ桜であります。平泉は十二世紀、奥州藤原氏により約百年間に亘り黄金文化か花開いた所で、みちのく(東北)の政治と文化の中心であった地であります。初代清衡公は国宝指定第一号金色堂を有する「中尊寺」を、二代基衡公は日本有数の浄土庭園である「毛越寺」を、三代秀衡公は宇治の平等院を模した「無量光院」を造営しました。(いずれも特別史跡)特にも秀衡公は、鎮守府将軍と陸奥守に任ぜられた平安末期を代表する為政者でありました。また平泉は、悲運の武将「源義経」と「武蔵坊弁慶」の終焉の地として、そして時代は江戸「松尾芭蕉」が「奥の細道」紀行で訪れた場所としても知られる土地であります。「秀衡桜」が今後も熊野古道の花篝りとして、多くの方に愛でられ続けることを願ってやみません。          岩手県平泉町 平泉観光協会