近露王子
  
永保元年(1081)十月、熊野に参詣した藤原為房は、川水を浴びた後、「近湯」の湯屋に宿泊しています。王子社の初見は、藤原宗忠の日記、天仁二年(1109)十月二十四日条で、宗忠は川で禊をした後、「近津湯王子」に奉幣しています。このように、古くは「近湯」「近津湯」とありますが、承安四年(1174)に参詣した藤原経房の日記以降は、「近露」と書くようになります。建仁元年(1201)十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記によれば、滝尻についで、近露でも歌会が行われています。定家は、川を渡ってから、近露王子に参拝していますので、上皇の御所は右岸にあったようです。承元四年(1210)、修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記でも同様で、女院は四月二十九日に宿所に着いて「浴水・禊」をし、翌五月一日に王子社に参拝しています。このように、近露では宿泊することが多く、川水を浴びた後、王子に参拝するのが通例でした。江戸時代には、岩一王子権現社と呼ばれ、木像の神体が安置されていたようです。明治時代には王子神社となりましたが、末期に金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。なお、跡地の碑の文字は、大本教主出口王仁三郎の筆によるものです。