継桜王子
  
平安時代後期、奥州の覇者として君臨した豪族、藤原秀衡はその権勢とは裏腹に40歳を過ぎても子宝に恵まれず、子どもが授かるようにと熊野権現に祈願しました。ほどなく願いがかない、秀衡の妻は身ごもり、夫婦ともども東北の地からはるばる熊野権現にお礼参りへと旅立ちます。
やっとの思いで滝尻王子に到着すると、にわかに妻は産気づきます。そこで妻は王子社の背後にある山中の岩屋に入って男子を出産しました。夫婦は先を急いでいたので、我が子の無事を王子社に祈願しつつ、その子を岩屋に寝かせたまま熊野本宮大社に向かいます。途中、秀衡は野中の里で桜の枝を桧の株に突き刺し、「参詣の帰途この枝に花が咲いていたら無事なり」と祈願して本宮に向かい、参拝を済ませてすぐ野中に戻ってみると、桜の木には花が咲いていきいきとしていました。
滝尻の岩屋へとたどりつくと、赤ちゃんは岩からしたたり落ちる白い乳を飲み、狼に守られて丸々と育っていました。この子が後の藤原忠衡であるといわれています。
秀衡は熊野権現の霊験にさらに感激し、滝尻の境内に七堂伽藍を造営して経典や刀などの宝物を奉納したといわれます。赤ちゃんが生まれた岩屋は「乳岩」、その近くの玉石が重なり合って出来たトンネルは「胎内くぐり」名づけられ、今も滝尻王子の裏手の古道沿いにあります。桜の木は「秀衡桜」といわれ、桧の株に桜を継いだという伝承からこの地の王子社は「継桜王子」という名前がつけられました。