花折塚---玉置山展望台---かつえ坂---玉置神社---玉置辻(本宮辻)---大森山---篠尾辻---五大尊岳---金剛多和---大黒天神岳---山在峠---吹越山---吹越峠
七越峯---備崎
    
2009年9月26日-27日  晴れ

先週の続き、花折塚より少し玉置山よりの京ノ谷大谷林道を歩き始め、玉置山、玉置神社によって大森山、五大尊岳、大黒天神岳を越え、七越峯から備崎に下るコースだ。全体に下りだが、アップダウンを繰り返しながらの下りで、予想以上に厳しいコース。完走できれば、今日で大峯奥駈道は終了する。

近鉄宇治山田駅を13時48分に出発、15時29分に吉野口に着いた。ガイドN氏の迎えで、湯泉地温泉民宿かたやまに17時30分頃着いた。ゆっくり温泉に入り、おいしい食事をして、早く寝た。
翌日5時過ぎに宿を出発した。日の出前であたりは真っ暗。送迎車で、前回歩きそびれた京ノ谷大谷林道に沿った短い距離の山道をまず歩いた(花折塚やや北)(5:57〜6:03)。「奥駈を途切れることなく歩きたい」という私の希望を察してくれてのガイドN氏のありがたい配慮だ。ほんの5〜6分の距離だ(写真)(写真)。その後前回車に乗ったあたりから林道を歩き始めた(6:15)。途中玉置山展望台から眼下の山々を見て(06:19)、かつえ坂登り口の世界遺産の石碑前で、N氏と合流し(6:29)、かつえ坂を一気に登り(写真)、玉置山(標高1076m)(6:49)に着いた(写真)。ここから山道の階段を下り、玉置神社の裏手にでた。休憩をしながら、玉置神社本殿には6時51分に着いた。本殿裏にある夫婦杉、神代杉を見学。神代杉は樹齢3000年ともいわれている。夫婦杉はその名のとおり二又に分かれた幹が伸びていて、夫婦が並んで立っているよう。本殿前の階段を降りて玉置辻に向かって歩いた。途中津波時に犬が吠えたといわれる犬吠檜を通り(写真)、玉置辻(本宮辻)(写真)には7時45分に着いた。林道を横切り、大森山に向かった。最初は未舗装の険しくない登りだが、だんだん急坂になり、息があがってきた。約1時間半後やっと大森山(標高1078m)に到着(9:13)。ほんの少しだけ休憩して、再び五大尊岳に向かった。今度は険しい下り。大水の森三角点(9:27)(写真)、篠尾辻(10:07)を通り、250mぐらい高度が下がる。五大尊岳には10時49分に着いた(標高825m)。頂上には最近運ばれた仏像碑があった。ここからの下りがさらにきつかった。途中ロープを使った下りもあり、滑らないように踏ん張るので、大腿部筋肉痛に悩まされながらの下山だった。疲れているので枯葉で足を滑らしたり、木の根っこや石につまづいたりしながらの歩きだった。金剛多和(12:25)で昼食をとり、日没までに何とか今日の行程を歩き終えたいので先を急いだ。金剛多和ノ宿跡(12:50)(500mぐらい)まで下り、この後再び今日最後のピーク大黒天神岳に向かった。道巾が狭くバランスを失うと「はい、さようなら」という箇所もあった。大黒天神岳(標高573m)(写真)には13時11分に着いた。あと一頑張り。長い登りはもうないと聞いて、あとは滑って転倒しないように注意しながらもくもくと降りていった。山在峠(標高265m)まできた時はほっとした(14:09)。どうにか時間的にも今日の目標をクリアできそうだと思った。今までと違い開けた場所があり、休憩したいと思ったがそうもゆっくりできず、又先へ進んだ。ここから先は普通の山道であまり神経を使うこともなかった。吹越山(14:37)(写真)、吹越峠(15:12)、を越え、開けた場所から悠々と流れる熊野川と大斎原の鳥居が見えた(15:28)。昔人もこの風景を見て、安堵したことだろう。七越峯(15:47)から向こうは舗装道を歩き備崎橋を渡り終えて今日の行程を無事終了(16:30)(写真)。この先は以前、下地橋から大斎原まで歩いたので、時間の都合上省略。一足先に大斎原に駐車してある車で迎えにきてくれたN氏に国道168号線でピックアップしてもらい、近鉄吉野口まで送ってもらった。
19時31分吉野口発の列車に乗って21時41分に宇治山田駅に着いた。

      

案内板の説明

世界遺産 大峯奥駈道
第40代天武天皇の頃、役の小角によって始められた修験道は、山伏姿で山野を跋渉し、呪文を唱え、行場を巡って、苦行修練することを目的とする仏教の派である。
大峰山を根本中堂とする修験道は、熊野から吉野に至る間に七十五の靡(行場)を開き、熊野から入るのを順の峯入り、吉野から入るのを逆の峯入りと称したが、玉置山は熊野から数えて十番目の靡として行者の往来が盛んであった。今も奥駆道と称する行者の道を行き来する姿が見られる。
  
大峯奥駈道
地理的概要
大峯の連山は、紀伊半島の中央部から南へ走り、近畿の屋根・大和アルプスなどと称される。北から大天井岳・山上ヶ岳・大普賢岳・弥山・八経ヶ岳・大日岳など標高約1200〜1900mの急峻な山岳が連なっている。大峯奥駈道は、この大峯山脈の主稜線を通り、吉野と熊野の二大霊地を結ぶ170kmにも及ぶ山岳道で、修験道の開祖役行者によって開かれた最高にして最大の修験根本道場が大峯山脈であり、ここを中心にわが国固有の信仰である修験道は1300年の歴史と文化を脈々と現代に伝えている。奥駈道は、一般の通行路ではなく、修験者の厳しい峰入り修行のための信仰の道であるために、修験教団や民間の講並びに地元の人々によって古代からの山岳道として維持保存されてきたものと推定される。
奥駈道には、大峯七十五靡と呼ばれる霊地や行場が遺跡として各所に残り、また、霊地や行場の祠や諸仏尊像が良好な状態で保存・管理されている。なお、大峯山系を中心にした山岳地帯は、昭和7年(1932)に指定された吉野熊野国立公園に含まれ、雄大な自然を求めて訪れる登山者も多い。
歴史的概要
修験道の開祖とされる役小角。尊称して役行者と呼ばれ、飛鳥時代後期(634〜701)に葛城山麓に住した山岳修行者である。その役行者が修験道の根本道場と定めたのが大峯奥駈道である。奈良時代(710〜784)には、吉野の比蘇寺(吉野寺)では、自然智宗とよばれる山岳抖擻を旨とする山岳修行が形成されていた。平安時代(794〜1185)初頭には熊野から金峯山にいたる大峯の山中を抖擻する修行が盛んになり、峯中には数多くの靡と称される行場を中心に大峯修行が行われるようになった。
靡とは役行者の法力に草木もなびいたという意味を持つ山中の行場などを指し、修験道に関わる神仏の出現の地、あるいは居所とされている。大峯修行の成立時、山中には100〜120の行場や霊地が定められていたが、その後七十五靡としてまとめられた。やがて、順峰(熊野から吉野)による修行が少なくなり、多くは吉野から熊野に入るコース(逆峰)を採るようになった。いわゆる山上詣では庶民の間にまで広がり一般化した。そこで、より厳しい大峯修行は山上ヶ岳より更に奥に入って修行するところから「奥入り」と称され、今日では大峯奥駈修行と呼ばれるようになった。
   
ようこそ千古の霊気ただよう世界遺産の玉置神社へ
当神社のご草創について「玉置山縁記」によれば、神武天皇ご東征の折、熊野の浜辺に上陸され、八咫烏の案内を得て、大和の地をめざし、その道すがら、玉置山に至りて、身の安全を祈願され「十種の神宝(とくさのしんぽう)」を奉じたと伝えられています。降って第十代 崇神天皇が「天下安泰」や「悪魔退散」を祈願され創建されたとも伝えられています。この神社が世に名を知られる様になったのは、熊野より吉野大峰山に至る修験道が開かれて以来、千三百年の伝統を持ち、豊かな自然と人々の篤い信仰によって支えられています。
(玉置神社弓神楽)
  山となる 玉置の山の 弓神楽
  弦音すれば 悪魔退く

    

交通
近鉄 吉野口-宇治山田 乗車券 1540円
吉野口-宇治山田 特急券 1280円
 
宿泊
湯泉地温泉 民宿かたやま
〒637-1333 奈良県吉野郡十津川村小原567 
TEL 0746-63-0012  FAX 1746-63-0033
http://yunoyado.jp/
1泊朝夕食 7300円/人 
   
   
トレックトラベル
〒649-6203和歌山県岩出市桜台660
TEL 0736-62-7028
URL  http://www/trektravel.co.jp