JR紀伊田辺駅---道分け石---新庄峠---郵便橋---日神社---JR富田駅   20070321日  晴れ
   
先週、中辺路を歩き終えたので、今日からは大辺路を歩き始めようと計画をたてた。大辺路は田辺から那智まで、紀伊半島南部の西側海岸線をたどり、約120kmに及ぶ。田辺を出た古道は富田川に沿って南下する。
3月21日早朝に伊勢市を出発して、鶴橋からJR大阪環状線で天王寺に行き、9時49分発くろしお7号で紀伊田辺に着いたのは11時43分。11時57分に紀伊田辺駅を出発した(写真)。駅前道りを南にとり、2つ目の信号を右折して、湊本町通を進むと左手に蟻通神社があり(写真)(12:03)、そこから少し行くと中辺路と大辺路の分岐点を示す石碑がたっていた(12:07)。「左くまの道、すくハ大へち」と書かれている道分け石で、ここが大辺路の起点だ。ここの角を左折、次の角を左折すると海蔵寺というりっぱなお寺の前を通り(12:12)、駅前通りに出た。右折して次の信号を左折すると、遠くに闘鶏神社の大きな鳥居が見えてきた。そのもう一つ向こうに鳥居があり、これが本当の鳥居らしかった(写真)(12:19)。神社の中は広く、大楠や湛増・弁慶の像を見て休憩。もう休憩とはちょっと早いけど。テレビの大河ドラマでも見たが、この闘鶏神社は室町時代、熊野三山で権力をふるった田辺別当家の拠点で、熊野水軍をひきいていた。別当の湛増が、源平のどちらに見方するかを紅白の鶏を戦わせて決め、その結果源氏方について、壇ノ浦で大活躍した話は有名だ。
闘鶏神社をあとにして(12:27)、県道31号線を白浜方面に進んだ。信号を右折して高台にかかる二つ池大橋を渡り、ホテル手前から坂を下った信号で右折した。ガイドブックにこのように道が書いてあったのだが、真直ぐ来ても同じ道に出るようだ。新庄をめざして進んだが、車の交通量が多い。旧道らしき道を右にとり、新庄の集落を通った(写真)。再び県道に出たところが名喜里川だった13:20)。県道を渡って名喜里川沿いに歩き(写真)、JA紀南の手前の小さな橋を渡って、しばらく行くと、左手に少し入り込んだところに大潟神社が見えてきた(13:30)。鳥居のすぐ脇の道を右のとり、坂を登っていくと、国道42号線に架かる橋が見えてくる(写真)(13:34)。この橋を渡り、竹林を過ぎ、舗装した道路に出たところを右折すると、道路の右脇に「道分け地蔵、勢力地蔵」の祠があった(13:43)。この先の「株式会社タカオ」という標識のある三叉路を右に進み(写真)、坂を登りきったところを右の山道の方にとる(写真)。次の三叉路には峠の高地蔵の標識があり(写真)、それにしたがい、左手に行くといよいよ山道に入っていく(13:52)。新庄峠だ。と思ったのもつかの間又すぐに車の音が聞こえてきた。下りの途中左側に石段があり(写真)、この上に高地蔵が祀られていた(13:54)。そこから下るとすぐ工事現場に出て、そして国道42号線に出る。交通量が多くて、身をちじめながら歩いた。国道沿いの峠の大師堂(写真)(14:12)、糠塚を通り(写真)(14:15)、朝来(あっそ)の手前で国道からそれて、JR紀勢線に架かる跨道橋を通って(写真)(14:22)、朝来の集落の中の道を進んだ(写真)。櫟原神社にお参りして(写真)(14:35)、再び国道に出た(14:39)。ここには朝来の道標があったが、交差点で通行量が多くて何と書いてあるのかゆっくり見れなかった(写真)。再び車がビュンビュン通る国道42号線を歩き、国道311号線との交差点を過ぎ(写真)(岩崎)(14:45)、郵便橋に着いた(15:12)。この角のコンビニで休憩して、郵便橋を渡った(写真)(写真)。ガイドブックにはここを過ぎて、富田川の右岸を行くように書いてあったが、やっとついた郵便橋、当然渡るものと勘違いして、そのまま国道42号線を進んだ。ただこのあたりはかなり交通量も少なく、歩道もついているので、歩くのに神経を使わなくていいので助かる。やがて白鷺橋が見えてきて(写真)(15:44)、道を間違えたことを確信したが、「ま〜この道でもよかったか〜」と勝手に決め込み先を急いだ。右手に天然記念物大鰻の碑(写真)(15:52)、左手に平間神社(15:54)、満願寺(写真)(15:58)、魚濫観音(写真)(16:00)、を見て、日神社にやっと着いた(写真)(16:14)。
日神社で小休憩し、時間を気にしながら、さらに道を進み右折して富田川を渡り(写真)(16:30)、道なりに進んで富田駅に着いた(写真)(16:44)。調べてきたとおりJRは次は17時52分までない。予定では駅だからタクシーがいるかも。もしいなくてもどこかに連絡先ぐらいは書いてあるだろうと思っていた。富田駅は瀟洒なきれいな駅だったがまったくの無人駅。中学生が2人、電車を待っているのか、ボール投げをしていた。近くに電器修理の車が止まっていて、ちょうど仕事を終えて車に乗るところだった。その人たちに「タクシーはどこにいけば乗れるのですか」と聞いたら、「白浜駅までいけばたくさんいるよ」と。「その白浜駅まで行きたいのだけれど。」「一人なら乗れるから白浜駅の前を通るから乗っていく?」と。ラッキー、この親切な2人のお蔭で予定通り無事17時34分白浜発の列車で帰ることができた(写真)。ありがとうございました。
   
   

 

蟻通しの由来
むかしのことです。ここ紀州田辺に外国の死者がやってきました。その使者は「今から出す問題を解いてみよ もし解けなければ日本国を属国にしてしまう」といいました。そして持ってきた法螺貝を出してその貝に一本の糸を通すことを命じました。日本の神々はこの難問に大変頭を痛めました。その時一人の若い神様が前に進み出て「私が法螺貝にその糸を通してみせましょう」といって貝の口からどんどん蜜を流し込みました。蜜は貝の中の複雑な穴を通り抜けて貝尻の穴へと流れ出しました。そしてこの若い神様は蟻を一匹捕らえて糸で結び、貝の穴から追い込みました。蟻は甘い蜜を追って、複雑な穴の中を苦もなく通り抜けました。蟻の体には糸が結ばれていますから、法螺貝には完全に糸が通ったのです。これを見た外国の使者は「日本の国はやはり神国である」と恐れ、その知恵に感服して逃げ帰りました。
日本の神々はたいそう喜んで「わが国にこれほど賢い神があるのを知らなかった」といって、その神様の知恵をほめました。
そして蟻によって貝に糸を通したことにより蟻通しの神と申し上げるようになりました。今では知恵の神とあがめられています。
日本第一知恵の神 
紀州田辺湊
蟻通神社
      
弁慶社について
西塔の武蔵坊弁慶は中世の傑僧である。その生涯は悲運の武将源義経に仕え、一の家臣として幾多の危機、苦難から救ったことで知られている。後世、その様子は文学、芸能に表れ、智、仁、勇を体現した日本人の典型として大きな影響を与えた。
出生地については諸説ががあるが、江戸時代の正徳三年(1713)に刊行をみた「和漢三才図会」では、諸説を比較校合した結果、弁慶は熊野三山の別当湛増(一名湛真)の子に生まれたとの記述があり、また、当地においては、大庄屋の記録「万代記」(闘鶏神社蔵)に、熊野別当の家系に異形の童子が生まれ、幼時に都の公家に養われ、比叡山で修行した子が後の弁慶だと記されている。
田辺地域には、弁慶誕生にまつわる産湯の井戸、産湯の釜、腰掛石などの遺物、遺跡が数多く残されている。なかでも「弁慶松」は弁慶が奥州衣川で義経を守り、壮絶な立ち往生を遂げた報を聞き、その生涯を讃えて地元の人が植えたものと言われている。弁慶松は初代から五代まで、片町の一角に植えられており、松の根方に弁慶大神のお社が設けられ、広く市民に親しまれていたが、昭和50年に枯死し、現在、市庁舎前に植え継がれている。
五代目弁慶松のの伐採以降、弁慶松の根方にあった弁慶大神のお社は、その後、有志の手により三十年の長きにわたり護られてきた。今回、新たに弁慶社を建立したことにより、その精神を引き継ぎ崇め、ひいては、田辺生まれの弁慶が将来ともに語り継がれるよすがとなれば幸いである。
平成十七年九月十二日
弁慶社建立推進協議会
   
御神木 大楠
 市指定大樹天然記念物
 樹齢 伝 約千二百年 二度の落雷により中央部以上焼失欠損
 樹高 十四メートル
 胸高周囲 八メートル
老木により、延命長寿・無病息災の信仰。又、楠の下に立ち楠の歯を歯痛の患部につけ歯病治癒の信仰あり。
御神木の樹洞に人が住み着き、ある日火の不始末から木に火が付いたところ、中から水を噴出して火を消したという話が伝わる。
   
湛増と弁慶の像  
源平の戦いは一の谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになり、熊野水軍の統率者である熊野別当湛増に対する源平双方の働きかけは激しさをきわめた。
義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に帰り、父湛増の説得に成功、湛増は白い鶏七羽、紅い鶏七羽を闘わせて、神意を確かめ、湛増指揮のもと弁慶を先頭に若王子の御正体を奉持、金剛童子の旗をなびかせて総勢二千人余人、二百余の舟に乗って堂々と壇ノ浦に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たした。時に文治元年(1185年)三月のことであった。

昭和六十二年五月三日

武蔵坊弁慶・熊野水軍出陣八百年祭実行委員会

   
日神社
社伝によれば、日神社は、仁安2年(1167)吉田少将範秀が伊勢神宮の分霊を奉斎したのにはじまるといわれます。現在本殿は、様式手法からみて、江戸時代後期に再建されたもので、紅梁頭貫ばな支輪等、随所に地方色の強い彫刻を施してあり、この地方にすぐれた技術者のいたことが知られます。また、神社には、室町時代前期以降の棟札が八枚保存されていますが、本殿とともに神社の歴史を知るうえで貴重なものです。
若宮神社、稲荷神社には小規模な春日造り神社であり、構造形式はごく一般的なものであります。雲気をはく龍の庇木鼻、笈型を大きくおく背面の妻飾りは立派なもので、本殿の脇をかためるには恥ない意匠をみせています。建造期は、本殿より少し下がって18世紀中期から後期ごろのものとみられます。
厳島神社は小規模な一間社流造で、千鳥破風、軒唐破風を付けてややはでに見せていますが、細部の意匠はごくおとなしいつくりです。絵様などをみますと、建立年代は本殿とそう変わらない時期と推定されます。
    

 

  

   

   

  
西日本JRバス  0739-42-3005
龍神バス     0739-22-2100
明光バス      0739-22-0594
宇治山田--鶴橋(近鉄)  乗車券 1750円 特急券1280円 
鶴橋--紀伊田辺(JR)      乗車券 2940円
天王寺--紀伊田辺、白浜(JR)  特急指定券 2390円