湛増と弁慶の像(闘鶏神社)
  
説明板から
源平の戦いは一の谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになり、熊野水軍の統率者である熊野別当湛増に対する源平双方の働きかけは激しさをきわめた。
義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に帰り、父湛増の説得に成功、湛増は白い鶏七羽、紅い鶏七羽を闘わせて、神意を確かめ、湛増指揮のもと弁慶を先頭に若王子の御正体を奉持、金剛童子の旗をなびかせて総勢二千人余人、二百余の舟に乗って堂々と壇ノ浦に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たした。時に文治元年(1185年)三月のことであった。