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天満橋 八軒屋船着場跡---座魔神社行宮、窪津王子跡---朝日神明社跡、坂口王子伝承地---榎木大明神---楠大明神---
近松門左衛門の墓、郡戸王子跡---高津神社---四天王寺---庚甲堂---(堀越神社---)阿部王子神社---住吉神社、津守王子跡
---南海電鉄 浅香山駅
     
2007年11月4日  晴れ
   
大辺路をほぼ歩き終えたので、今回から紀伊路を歩くことにした。平安時代、京から熊野御幸に向かった上皇、貴族らは淀川を船で下り、現在の大阪天満橋付近の窪津に上陸した。ここからは陸路を沿道に点在する九十九王子と呼ばれる熊野権現の御子神を祀った王子社に礼拝しながら熊野に向かった。
今日は天満橋から堺、浅香山まで歩く予定で、朝早く近鉄で鶴橋まで行き、そこからJR環状線で京橋まで、そこで京阪電鉄に乗り換えて、天満橋まで行った。天満橋南の土佐堀通りを出発したのは10時13分だった(写真)。土佐堀通りを西に進むと左側の昆布処永田屋本店前に当時の船着場跡を示す八軒屋船着場跡の碑が建っていた。ここに昔は船から上陸したのだと言う。ここから天神橋に向かって2つ目の角を左折し、少し行くと左側に座魔神社行宮があった(10:30)。ここは第一王子、窪津王子跡だ。ここから今来た道をもどり、土佐堀通りを1ブロックもどって、熊野街道を示す碑がある角を南に進んでいく。なだらかな坂になっていて、休日なので車も人通りも少ない。土佐堀通りの雑踏からマンションが立ち並ぶ道に入って、あちこち見ながら進んでいった。大阪は普段あまり来たことがないので、方角もわからず、この先不安もちょっぴりある。この通りは御祓筋というそうだ(10:35)(写真)。右に北大江公園、左に中大江公園を過ぎ、南大江公園に着いた(10:56)。この公園内の南西の角に朝日神明社跡、坂口王子伝承地を示す碑が建っていた。この横には狸坂大明神の赤い鳥居があった(写真)。さらに御祓筋を南下。安堂寺町通りを過ぎると大きな木が見え、その下に祠があった(写真)。榎木大明神というが、この御神木は榎木ではなく、槐木(えんじゅ)だそうだ。榎木大明神の向こうの坂道を下ると長堀通りに出る。少しもどって安堂寺町通りを東へと進んだ。谷町筋を越え、上汐筋で南に下った。天王寺に近づくとマンションの間にラブホテルがだんだん見られるようになってきた。しばらく歩くとT字路になり、このあたりで道に迷い、一度谷町筋に出て南下。少し行くとビルとビルの間の左手に近松門左衛門の墓があった(11:27)。このあたりが郡戸王子があった所らしい。楠大明神はここから1ブロック谷町筋を戻るとある。道の真ん中に大きな木が立っていて、その下に小さな祠があった(写真)。写真を撮っていると、すぐ近くのおばあさんが出てきて、新聞に載った切り抜きのコピーをくれた。「あとで読んで。うちのことも書いてあるから」と。谷町筋には左右にコンクリートの立派なお寺が並んでいた。谷町筋をさらに南に下って右折し、高津神社にいくつもりだったが、一つ南の道まで来すぎて右折してしまいこの大通りを渡ることができなくて、結局生國魂神社の裏手にでてしまった。結局大回りをしてやっと高津神社に着いたのは12時だった(写真)。七五三の家族連れが着物を着てお参りをしていた。ここで一息ついて、先ほど曲がった谷町筋九丁目の交差点までもどり、谷町筋の1本西の道を南に歩き、生國魂神社の前を通り(写真)、又途中から谷町筋に出て今度は四天王寺へと向かった。ここで随分遠回りをしてしまった。四天王寺は日本最古の官寺で、聖徳太子によって593年に建てられたが、大戦で焼け、コンクリートで再建されたとのことだ。。実は四天王寺に来たのは初めてだった。四天王寺中之門から入り(12:43)(写真)、広い境内をあちこち見ながら西大門から出た(13:07)(写真)。西門を出たところで又迷い、再び熊野街道にもどって、庚甲堂に寄り(13:22)、天王寺駅に向かった。もうその頃には疲れと空腹感でフラフラしてきた。とりあえず駅近くのカレーショップに入り、腹ごしらえ。ここで随分ゆっくり休憩して、再び南に歩きはじめた。ここで堀越神社に行くのを忘れていることがわかったが、時間も随分遅れているのでこのまま先を急ぐことにした。JR天王寺駅前を過ぎてあべの筋を南へ下った。松虫でY字に分岐する道を右にとり、路地に入っていった。安部清明神社を過ぎ(14:30)(写真)、阿部王子神社に参った(14:31)(写真)。ここは大阪府で唯一現存する王子社とのことだ。境内には楠などの大木が残り、雰囲気のある社だった。道は再び阪堺電軌上町線の線路敷きに沿って走る阿倍野街道に入る(写真)。両側には大きな家が立ち並んでいた。左に万代池公園があり、ここでも一休み。さらに上町線に沿って進み、帝塚山4丁目の駅で町中に入っていった。このあたりで次の住吉神社に行く道がわからなくなり、土地の人に道をたずねるとなんだかぜんぜん違う方向に来てしまったみたいだった。住吉神社の裏の方(たぶん北東の方)から神社に入った(15:29)。すぐに津守王子跡のたて看板があったが、どこが王子跡なのかよくわからず、そのまま人の多い方へ行った。あとで調べると現在は津守王子はこの看板のすぐ横にある[新宮社]という社に祀られているとのことだった。ここ住吉大社でも七五三のお参りの家族連れが数組いた。大きな神社で四つの本殿は国宝だそうだ(写真)(写真)(写真)。一つずつお参りして、木の御札を買った。正面入口には太閤秀吉の側室、淀君が寄進した太鼓橋があった。西から神社を出て南に下り、古道にもどり、津守王子跡との説がある墨江小学校を通った(16:05)。ここには津守廃寺跡の碑が建っていた(写真)。小学校の前の道を南に進み、大和川に出る手前で右折広い通りに出て、通里小野橋を渡ってもう夕暮れとなった南海高野線浅香山駅にやっと着いた(16:50)(写真)。
大阪というと学会、研究会で来るだけで、会場とホテル、その周辺の見学だけ。雑踏の中をいつも駆け足で通り過ぎることが多いのだが、今回はそんな大阪とは一味違った生活のにおいがする趣あるゆったりとした都会を体験できた。都会も一筋中に入れば又違う。今までの大都会も大阪、そして今回の大阪も又大阪。いにしえの熊野御幸に思いを馳せながら、次回もこの続きを歩こう。
今回歩いた道には八軒屋船着場跡からの距離を示した道標(写真)、街道地図(写真)そして歩道に埋め込まれたパネル(写真)があり、ここが熊野街道だったことを示してくれる。

 

案内板の説明
  
熊野かいどう
熊野街道はこのあたり(渡辺津 窪津)を起点にして熊野三山に至る道である。京から淀川を船で下り、この地で上陸。上町台地の西側背梁にあたる御祓筋を通行したものと考えられ平安時代中期から鎌倉時代にかけては「蟻の熊野詣」といわれる情景が続いた。また江戸時代には京 大阪間を結ぶ三十石船で賑い八軒の船宿があったことから「八軒屋」の地名が生まれたという。

平成13年  大阪府

   
   
坐魔神社行宮 
豊磐間戸・奇磐間戸神社
御祭神 豊磐間戸神・奇磐間戸神
是地は坐魔神社の旧鎮座地であって、天正11年(1583)豊臣秀吉大阪築城に際し、城域に当たる為、現在の大阪市中央区久太郎町4丁目に遷座される迄当地に鎮座し給うた。社傳によると神功皇后が新羅よりご帰途の折この地に坐摩神を始めて奉斎され、また石上に御休息されたと伝えている。今も境内に鎮座石が残り、故にこの地を石町と称すともいう。平安期、熊野詣が盛んとなり、京都から摂津・和泉をへて熊野本宮に至る熊野古道沿いに熊野王子社が数多く設けられたが、淀川を船で下り最初に参詣する第一王子とも呼ばれる渡辺王子(別名窪津王子)社のもとの鎮座地と云う。
    
   
太閤下水(背割下水)
江戸時代に造られた石組み下水道。「太閤下水」の呼称から、豊臣秀吉が行った大坂の町づくりと関連付けられています。17世紀中頃の大坂を描いた「三郷町絵図」にこれらの水路が描かれており、江戸時代初期からあった下水道といわれています。明治27年(1894年)から行われた「中央部下水道改良事業」によって、石組み溝の底にコンクリートを打ち、蓋をかぶせる工事を行い現在の姿となりました。江戸時代に造られた下水道が現役で機能している例は他都市にはなく、大坂の町づくりの歴史を示す貴重な資料として、一部が平成17(2005)年度に大阪市文化財(史跡)に指定されました。
     
   
朝日神明社跡(坂口王子伝承地) 
朝日神明社は、天慶年間(九三八〜九四七)に平貞盛が創建したという。天照皇大神と倭比売命を祭神とし、朝日の社名は祭神の天照皇大神にちなむとも、社殿が東面していたためとも考えられる。熊野王子のひとつの坂口王子の伝承地である。当社は坂櫓社とも称されたが、これは源平合戦の際に、源義経と梶原景時が櫓のつけ方について論争したことに由来する。江戸時代の難波二二社巡りのうちの一社である。明治四〇年(一九〇七)三月までこの神崎町に鎮座していたが、現在は此花区春日出中に移座している。旧地には狸坂大明神が鎮座している。
    
   
近松門左衛門墓
近松門左衛門は、享保9年(1724)に72歳で没した、近世で最も著名な劇作家の一人である。近松は二代目義太夫のために百作を越える浄瑠璃を著す一方で坂田藤十郎のために三十数作の歌舞伎狂言を著している。『曽根崎心中』『心中天網島』『女殺油地獄』などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は今日に通じるところも多く、伝統芸能や演劇・映画などの中で再創造され、たくさんの人々に感動を与え続けている。
近松門左衛門墓は、当初近くの法妙寺(現在大東市へ移転)境内にあったが、昭和55年(1980)財団法人住吉名勝保存会はじめ市民の方々の協力を得て、当地に移転し、整備が図られた。

平成7年10月28日   大阪市教育委員会

     
    
聖徳太子影向引導石(しょうとくたいしようごういんどうせき)
この玉垣内鎮座の霊石は、聖徳太子ゆかりの引導石にして、四天王寺四石(転法輪石・伊勢神宮遥拝石・熊野権現礼拝石・引導石)の1つに数えられている。古記録によれば、葬送の時、暫く柩を鳥居の前に置き、太子の引導鐘を三打撞けば、太子自らこの引導石の上に影向され、安養の浄土にお導きくださると伝えられている。
引導とは、釈迦が「生者必滅、会者定離」の人生無情の迷いの世界より、人々を究極の悟りの世界へと導かれたことに始まり、その引導の教えは四天王寺西門より始まった彼岸信仰と彼岸中日に夕日を拝する日想感によって興隆した浄土信仰の中に結実し臨終に際して諸佛諸菩薩の聖衆が来迎し、極楽浄土にお導き下さるとの信仰を生んだのであり、四天王寺引導石は、太子信仰と西門信仰を結ぶ重要な霊跡となっている。四天王寺にご納骨の信心の参詣者は、六時堂ご参詣の前にこの引導石に詣でて、ご遺骨を聖徳太子影向引導五輪宝塔の内に安置し、傍らにある鐘を三打撞き、霊位の往生極楽を祈り、六時堂にて納骨法要を営めば、太子の引導に預り給うこと疑いない。経木にて先祖回向の場合も同様に、まずこの引導石に詣でて、各お堂にて回向を受け、亀井堂の霊水白石玉出の水に経木を流せば、その功徳は広大なものとなる。
     
     
もと熊野街道 
阿倍王子神社の西側を通る、もと熊野街道は渡辺の津とも窪津とも呼ばれた後世の八軒家 東区京橋三丁目付近を起点に、四天王寺、阿倍王子を経て、和泉の海岸ぞいに南下し、紀伊路に入って熊野三山にいたる古道で、平安朝時代から鎌倉時代にかけて盛んであった、熊野信仰と深いつながりがあった。街道筋には九十九ヶ所の遥拝所があり、これを王子と呼び、人々はその社頭に参詣し休息をとって次の王子へ向った。
阿倍野区史跡顕彰委員会
    
    
津守廃寺
一九四〇(昭和一五)年に、このあたりの道路工事や区画整理工事に伴って、白鳳時代(七世紀後半)の瓦や土器などの遺物が発見されました。このことから、近辺に古代のお寺があったのではないかと考えられ、住吉大社や住吉の津とかかわりが深い古代氏族の津守氏から、津守廃寺と命名されました。津守廃寺の後身と思われる津守寺というお寺が一八六八(明治元)年まで現在の墨江小学校のところにありました。津守寺は九〇一(延喜元)年に創建されたと伝えられ、薬師如来をまつっていました。住吉大社とつながりがあったことがわかっています。また、この津守寺に参拝した人に配られたお札を印刷した版木が残っています。そこには本堂にまつられていた薬師如来が描かれ、当時の様子を今に伝えています。

大阪市教育委員会

    

  

   

参考資料
  
近畿日本鉄道 http://www.kintetsu.co.jp/
JR西日本   http://www.westjr.co.jp/
京阪電鉄 http://www.keihan.co.jp/
南海電鉄 http://www.nankai.co.jp/index.html
   
   
近鉄乗車券  宇治山田-鶴橋 1750円
近鉄特急券 宇治山田-鶴橋 1280円
JR乗車券 鶴橋-京橋 160円
京阪電鉄乗車券 京橋-天満橋 150円
南海高野乗車券 浅香山-難波 250円
近鉄乗車券 難波-宇治山田 1750円
近鉄特急券 難波-宇治山田 1280円