富田橋---堂寺---馬谷城---郵便橋---富田坂---居の辻松峠---三ヶ川バス停---居の渡し場跡   
2007年4月14日〜15日
今回は大辺路、最初の難所富田坂を越えるつもりで、前回歩いた富田橋から安居の渡し場跡までの計画をたてた。
4月14日午後、宇治山田駅を12時47分の近鉄特急で出発、鶴橋を経て、15時20分天王寺発スーパーくろしお21号で白浜まで行った。白浜からタクシーで今夜の宿、エクシブ白浜へ着いたのは17時40分ごろだった。今夜は温泉にゆっくり入って、フランス料理を食べて明日の歩きに備えよう。
15日、朝食を食べ、8時半前にはエクシブ白浜を出た(写真)。タクシーで富田橋近くの富田郵便局まで行き、そこから歩き始めた(写真)。出発は8時37分。左手に富田小学校を過ぎ(写真)、富田の集落を通って道しるべに従い左折(写真)、高瀬川を渡ると石垣の上に建つ堂寺-という立派なお寺があった。このお寺の右手の細い道からが富田坂への入口だ(9:02) (写真)。
すぐに石畳の急な坂道になった。鬱蒼とした竹林をすぎると一里塚跡が左手にあった。右手前方には要害山城跡が見えるとの案内板があったが、よくわからなかった。この先を左折し、林道をと合流して進むと馬谷城址に続く山道があった。先程案内板があった山城跡への道だ。まだ歩き始めたばかりで、元気もあり、天気もいいのでちょっと寄り道することにした。ここは中世に日置を中心に勢力を伸ばしていた安宅氏の家臣、吉田春秀の要害山城とのことだ。坂はすごく急で心臓が踊る。なんでこんな辺ぴな高いところにわざわざ城をつくったの?食料、水を運ぶだけでも大仕事。と思いながら汗びっしょりになって15分程で本丸跡に到着。さすが眺めはいい。風も爽やか。ここには鯉のぼりが青い空をバックに泳いでいた。ここで汗をかいた衣類をかえ、水分補給をして一休み。再びもと来た道をくだり、古道まで戻ったら、9時42分になっていた。
しばらく林道を進むと、ここからが富田坂通称七曲りという看板があり、いよいよ急な坂道にさしかかった(10:01)。古道にはたぶん500mおきと思われる道標があり、迷うこともない(写真)。南紀はもう新緑の季節で、山々の緑に山躑躅の桃紫色がはえて美しかった。所々石畳が残っている山道をしばらく行くと傾斜がゆるくなり、富田坂茶屋跡に出た(10:55)。ここで一休み。ここは大正8年(1919)まで店を開いてとのことだ。明治時代には、紀州藩出身で外務大臣を務めていた陸奥宗光が、猪狩りをした時にここで休憩した記録がある。茶屋跡先の竜首展望からの紀伊の山々の眺めは素晴らしかった。この七曲りの頂上が居の辻松峠で、11時21分に着いた(写真)。地蔵尊と黒くこげた木の幹があった。これは一里塚を示す松だったが、昭和18年の山火事で燃えてしまったという。ここで休憩後、峠の林道を左に道をとると(11:26)視界が広がり、折り重なる山々が美しく見えた。このまま林道を下るのかと思っていたら、山道に入る大辺路という標識があった(写真)。ガイドブックにはこの道は書いてないし、入口は急で道があるのかどうか不安だったが、きちんとした標識があるので、そちらの方へ道をとった。山道に入るとそれほど歩きにくくはなく、きっと最近になって整備されたのだろう。こんな山道と三ヶ川沿いを行く林道を交互に歩いて祝の滝入口の案内板に着いた(12:33)。ちょっと足もえらくなったし、滝まで1kmありとのことで、案内板だけ読んで、この寄り道はパス。この滝には、昔田野井村の富豪に嫁いだ娘、祝が、嫁入り道具として持参したという伝説が残っている。自然の滝が嫁入り道具だなんて・・・
ここから林道をふさいでいる柵の横を通り、林道を三ヶ川沿いに進んだ。少し行くと姶良火山灰層跡があった。さらに林道を下ると梵字塔があった。その先には庚甲塔があり、もう初夏といってもいいような陽気のなか、三ヶ川沿いの新緑を楽しみながら三ヶ川バス停に着いた(13:42)。この先には洋々たる日置川の流れがあった(写真)。
県道を左折し、すぐにまた左折して安居集落に入る旧道を進んだ。三須和神社で一休みし、安居集落を通って県道を渡り、居の渡し跡の休憩所に着いた(14:09)日置川の川原に舟はあったが、誰もいなかった。ここから舟で対岸まで行き古道は仏坂へと続く。今日は予約していないが、次回は渡し舟予約して、ここから対岸の仏坂入口にいく予定だ。
 このあたりでうろうろして時間をつぶし、14時51分のバスで日置にいくつもりで安居バス停前で待っていたら、ボランティアガイドの方がご親切にも田辺の駅まで車で送ってくださるというので、ご好意に甘え、おまけに車中で古道のお話を色々うかがった。今日三ヶ川へ下った途中の古道はこの方たちが標識をつくり、整備されたとの話も聞き旅の終わりに楽しいお話を聞けてよかった。
紀伊田辺に着くと三重県で発生した地震のため列車がおくれるとの案内があり、急いで家に連絡をとったが、被害はないとのこと。16時09分田辺発予定のくろしお28号で天王寺へ行き、鶴橋経由で伊勢に帰った。この日は午前中に亀山で震度5、夕方中川付近で震度4の地震があり、列車は予定より少し遅れたが、伊勢の方の被害はたいしたことはなかった。

 

案内板
くまのみち富田坂
明治時代までの陸の孤島と称されていた熊野への交通は、古代における神武神話によるまでもなくすべて海上をえらばれていたが、白雉元年(650)修献道者、和林の手によってはじめて海岸線大辺路街道が開かれたとされているが、この大辺路線、最難の箇所、のぼり、くだり二里十町(約9キロ)といわれる富田坂を皮切りに安居=すさみ=古座を経て新宮までの行程二十三里が「御幸道」に指定された。その後、天武十年(682)今の中辺路線が開通と同時にこの線が「行幸式定御幸道となり大辺路街道は、「下向道」(返り道)となったのである。
   
古道入口

熊野古道の1つ大辺路街道は、ここから富田坂を越え日置川町安居を経て熊野三山に通じる陸路であった。明治以後は県道大辺路線と呼ばれ現在の海岸線(国道42号線)ができるまでは、この街道がりようされていた。

現在地 海抜約10m

    

熊野古道(大辺路)
紀伊半島西岸田辺で中辺路と分かれ、海岸線に沿って南下し、熊野三山に至る道である。中辺路に比べて距離が長く、奥駆をする修験者や、西国巡礼を三十三回行う「三十三度行者」と呼ばれる専門の宗教者が辿る道であった。ただし、江戸時代からは、観光と信仰を兼ねた人々の利用も知られる。本来の姿が良好に保たれている範囲は限られているが、海と山の織りなす美しい景観に恵まれた道である。
   
一里松跡
昔の街道には里程の目安として、一里(約4km)ごとに松や榎が植えられ、旅人の旅程に便宜を与えるばかりでなく、心の慰めともなっていた。ここにも一里塚と呼ばれる大きな松があったといわれている。土地の人々は、いまだにこの辺一帯の土地を一里塚と呼び、昔ながらの面影を伝えている。なおこの一里塚は安居辻にあった。
現在地 海抜約30m

     

要害山城(馬谷城)跡
前方に見える山が通称城山と呼ばれている山である。安宅荘(日置川町)の安宅氏が、明応3年(1494)家臣の吉田春秀に旧生馬村(上富田町)を与え城を築かせた。これが、高瀬の要害山城で馬谷(うまんたに)城ともいわれている。
紀伊続風土記に「村の東にあり、上段東西11間(約20m)南北5間(約9m)下段東西7間(約12、7m)南北4間(約7、2m)城主詳ならす」と記されている。
白浜町内に残る中世城郭の原形を最もよく残した貴重な城郭である。

城跡 海抜約90m

   
峠茶屋跡
ここは峠茶屋があったところである。この富田坂は文人の歌にも詠まれているとおり、大辺路街道のなかでも屈指の難所で旅する人々にとってこの茶屋の存在はなくてはならないものであった。また、明治25年(1892)4月には、陸奥宗光(のちの外務大臣)が猪狩りをしたさいに休憩したことなども記録に残っている。この茶屋は大正8年(1919)まで店を開いていたことが確認されている。

現在地 海抜約350m

   
安居辻松峠
ここが「紀南郷導記」に記されている安居坂の峠の分岐点であり、大辺路街道に設けられた一里塚にもあたる。この一里塚も道の両側に塚(径4m前後)が築かれ、その上に松が植えられていたため、往時、塚松と呼ばれていた。ここは、安居辻ともいい、和歌山より24里(96km)にあたる。
   
祝の滝
滝の高さは、およそ十メートル、水量の多いときには実に見事な滝となります。
<滝の名の由来>
昔、田野井村の田井筑後守という富豪の家に祝という娘がいました。嫁ぐ時、たくさんの嫁入り道具の他に祝の化粧料にこの滝を持参させたことからこの名で呼ぶようになったという説があります。
   
姶良火山灰層
三ヶ川の林道ゲート付近で姶良火山灰層がみられる。今から二万二千年前に九州の霧島火山帯の桜島が大爆発を繰り返し、噴き上げられた火山灰が偏西風にのって約五百キロ離れた日置川町安居の三ヶ川(約三十センチの地層がみられる)や本宮・中辺路にも積もって現在これが地層としてみられる。
   
梵字塔
梵字は古代インドの仏教と共に日本に入ってきたサンスクリット(梵語)の文字で、仏を表すものが供養塔や卒塔婆(そとば)などに見られる。この梵語は、梵字を並べて上から順に、大日・弥陀(みだ)・勢至(せいし)・観音・薬師などの十仏を表現していて、もとは旧道にあったのをここへ移したと伝えられる。
   
庚甲塔
庚甲は十千十二支の「かのえさる」で、六十日ごとに回ってくる。この日に眠らず過ごし、健康長寿を願う信仰があり、庚甲講で塔を建つこともあった。庚甲塔にはいろんな形態のものがあるが、下部に三猿をつけた庚甲塔が比較的多い。ここには、石製の庚甲立像と、庚甲と大きくほり込んだ文字塔がある。この地は寺山や三ヶ川の旧集落の入口にあたり、庚甲塔や地蔵像が建てられ、また集められたのであろう。
   
日置川町指定文化財
一、安居村暗渠碑(あごむらあんきょひ)(別称 鈴木七右衛門頌徳碑)
二、昭和57年1月26日指定(史跡)
三、安居暗渠と水路の歴史を知る唯一の資料と仁井田好古撰文による紀伊国の史跡顕彰十六碑の一碑。
四、和歌山藩主斉順公が鈴木七右衛門重秋と村民の協力による暗渠掘削の業績を讃えるため紀伊続風土記編さん総裁仁井田好古に撰文させた碑。

日置川町教育委員会

 

  

   

   

参考資料
エクシブ白浜(会員制)
〒649-2334  和歌山県西牟婁郡白浜町才野字西山1670-76
TEL  0739-42-2522
       
西日本JRバス   0739-42-3005
龍神バス       0739-22-2100
明光バス      0739-22-0594
   
宇治山田--鶴橋(近鉄)  乗車券 1750円 特急券1280円 
鶴橋--紀伊田辺(JR)      乗車券 2940円
天王寺--紀伊田辺、白浜(JR)  特急指定券 2190円