湯川王子
   
永保元年(1081)十月、熊野に参詣した藤原為房は、「三階」(三越峠)の手前で、「内湯川」で浴びています。王子社の初見は、天仁二年(1109)に参詣した藤原宗忠の日記の十月二十五日条で、「内湯」王子に奉幣しています。建仁元年(1201)十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記には「湯河」王子、承元四年(1210)五月、修名門院の参詣に随行した藤原頼資の日記には「湯川王子」とあり、この頃から湯川王子の名が定着します。参詣の途上、ここで宿泊や休憩することが多く、上皇・女院の御所や貴族の宿所が設けられました。この地は、戦国時代に御坊平野を中心に紀南に勢力をふるった湯川氏の発祥の地と伝えられ、応永三十四年(1427)九月に足利義満の側室・北野殿が参詣した際には、奥の湯川を称する豪族が兵士を従えて接待しています。江戸時代には、本宮町の湯川(下湯川村)と区別するために、道湯川村と呼ばれ、王子は若一王子社と称しました。明治時代には王子神社となりましたが、末期には社を残して、約十二キロ離れた近露の金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。もともと山中の小村でしたが、昭和三十一年(1956)無人の地になりました。現在の王子社の建物は、昭和五十八年に再興されたものです。