伏拝王子
案内板より
この王子は熊野本宮まで約4kmの地にあり、東南の方向に熊野本宮社地「大斎原」が望まれるため、熊野本宮遥拝所としての性格を有していたと思われます。しかし、創記は不明で御幸時代の記録には名がみえず、享保15年(1730)「九十九王子記」には水呑王子の次に伏拝王子がみられます。
徳川頼宣公が寄進したと伝えられる伏拝王子の石祠と並ぶ「和泉式部供養塔」は、笠塔姿の上に宝篋印塔の塔身と蓋を積み上げたもので、延応元年(1239)8月の銘があり、三百町卒塔婆の一つではないかともいわれています。
これは熊野権現が何事も心広く受け入れる神であることの事例として、時宗聖たちが諸国に広めたものと考えられます。
これは熊野権現が何事も心広く受け入れる神であることの事例として、時宗聖たちが諸国に広めたものと考えられます。