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JR山中渓駅---中山王子跡---雄ノ山峠---山口王子跡---山口神社---川辺王子跡---中村王子跡
力侍神社---川辺の渡し場跡---川辺橋---叶崎王子跡---JR布施屋駅
   
2008年2月17日  曇り時々雪
   
2月の寒い日、雪、みぞれの中をJR山中渓からJR布施屋駅まで、中山、山口、川辺、中村、叶崎各王子跡を訪ねながら歩いた。
早朝、7時23分に近鉄宇治山田駅を出発。鶴橋9時12分着。大阪環状線に乗り換えて、JR天王寺経由で、快速で日根野乗換え、10時34分に山中渓に着いた。
駅から南の方に進路をとると、左手小高い丘に山中関所跡があった(10:43)。その後右にJR,左に阪和自動車道を見ながら、緩やかな上り坂を進むと(写真)、桜地蔵の標識があった。阪和自動車道の高架をくぐり、左手の階段を登ると、石碑の前に二つの地蔵が立っていた(というよりは置いてあった)(11:06)(写真)。ここからもとの府道にもどるとすぐ大阪府と和歌山県の境界だ。ここ境橋のたもとには、日本最後の仇討場の石碑があった(11:10)(写真)。続いて道は県道和歌山貝塚線になり、滝畑の集落手前で左の方向へ進み集落の中にはいっていった。JRの踏切を渡ると中山王子跡があった(11:19)。集落にはもう白梅が咲いていた。再び県道に出て、坂を登り、雄ノ山峠へとさしかかった。道はあまり広くないうえに、交通量も結構あり、注意して歩かないといけない。峠を越え、下りにさしかかったところに、峠の不動明王が左に見えてきた(11:51)(写真)。かつては険しい峠越えだったのだろうが、今はへアピンカーブが続くアスファルト道になっている。峠を下りきり、湯屋谷集落手前のY字路を左の旧道に入ると山口王子跡がすぐ見えてくる(12:17)。その横には万葉歌碑が立っていた(写真)。このあたりからちらほらと白いものが降ってきた。畑の中を山口神社への近道だろうと思い、古道から少し外れて歩いたが、結局遠回りになってしまったのかも。途中で県道64号線に出て、ここで、昼食をとった。定食を食べたが、おふくろの味で、思いのほか、美味しかった。この食堂で尋ねたら、この食堂の裏手が山口神社だとのこと。県道を横切って、再び畑の中を歩いたが、この時、又降りしきるような雪。前も見えにくいほど雪が降るなか畑道を少し行って、路地で左を見ると、神社が見えてほっとした(13:16)(写真)。雪の降りしきる中、ただ一人、本殿をお参りしたが、なかなか立派で、いい雰囲気の神社だった。神社の前の民家の中を通って大きな山口神社鳥居に着いた(13:27)。この前は県道粉河加太線だ。通行量は多いし、雪はますます激しく降ってきて、寒さも一段を厳しくなってきた。「早く止んでくれないかな〜」と思いつつ先を進み、中村モータースのところで、左折し、旧道を進んだ。ここからは導き石に従い(写真)、民家の間、畑の中を進み、やがて川辺王子跡に着いた(13:59)。川辺王子には小さな鳥居があった。この王子は畑の中にあり、導き石がなかったら、とても辿り着けそうになかった。まるでゲームをやっている感覚だった。ここからも導き石を辿って、民家、畑の中を通り、次の中村王子跡に行った。道沿いに看板だけがある拍子抜けしたような王子跡だった(14:25)(写真)。少し先の力侍神社の鳥居下にも中村王子跡の石碑があり(14:30)、どうも王子跡の推定地はいくつかあるようだ。桜並木(勿論まだ咲いていないが)の続く向こうに力侍神社があり(写真)、ここで小休止をして、先を急いだ。この頃には雪もやみ、青い空が見え出した。国道24号線を渡って直進し、正念寺の前を通り(15:19)、川辺の渡し場跡の案内板があるところを土手に上がったのだが、この頃に又雪が激しく降ってきて、案内板を見るのもそこそこに、土手から川辺橋を渡った(15:26)(写真)。大きな橋で渡るのに10分もかかった。渡り終えた頃には雪は止んでいた。昔は紀ノ川を川辺の渡し場から船で、対岸の布施屋まで渡ったのだという。橋を渡って対岸を東に進み、しばらく行くと叶崎王子跡の道標があり(15:59)(写真)、右折して、JRの踏切を渡って、田んぼの中にある叶崎王子跡に立ち寄った(16:02)。又導き石に従っていくと、JR布施屋駅前に出た。ちょうど運良く列車が到着。あわてて切符を買って、飛び乗った(16:22)。和歌山線で和歌山まで行き、ここで紀伊路快速に乗り換えて(16:38)、天王寺まで行った。雪のため列車は約20分遅れ。JR環状線で鶴橋に行き、近鉄に乗り換えて、宇治山田に20時14分に着いた。
雪、みぞれの中、大変な古道歩きだったが、導き石のおかげで無事歩き終えた。

 

案内板の説明
  
山中関所跡
この地は、熊野街道(熊野古道)の山中関所跡地で東西から山がせまり、間に川が流れ、関所としては最も良い場所である。南北朝時代に岸の和田氏の一族、橋本正高氏がここに関所を設けて関銭を課した。応永2年(1395)長慶天皇が河内の観心寺に法華堂の造営のために、この山中に関所を料所とされたとの記録がある。この関所で課せられた関銭を前記の法華堂の造営のためにつかったものとおもわれる。村の人は、ここを「ほけんとう」と今でも呼んでいるが「ほっけどう」が「ほけんとう」にかわったものであろうと云われている。なお、この関所は、江戸時代に入って廃止された。
   
日本最後の仇討ち場の石碑
安政4年(1857年)土佐藩士広井大六は、同藩士棚橋三郎に、口論の末切り捨てられた。大六の一子岩之助は、当時江戸に申し出て、いわゆる「あだうち免許状」を与えられた。(安政5年)岩之助は、加太にひそんでいた三郎を発見し、紀州藩へ改めて、あだうちを申し出たところ、紀州藩としては「三郎を国ばらいとし境橋より追放するので、あだうちをしたければ境橋附近、和泉側にて、すべし・・・」と伝えられた。文久3年(1863年)、岩之助は境橋の北側で三郎を待ちうけ、みごとあだうちを果たしたとされる。これは、日本で許された最後のあだうちであると伝えられる。

  平成15年 阪南ライオンズクラブ

   
中山王子跡
かつて、京都から熊野三山までの熊野参詣道に、八十余ヵ所の王子社が祀られていました。王子社というのは、俗に「熊野九十九王子」といわれる熊野権現の御子神を祀る社のことです。山中王子は紀伊国に入って最初の王子社で、藤原定家の日記、建仁元年(1201)十月八日条に、その名が見られます。また、この付近は「雄の山中」といわれた所から、藤原頼資の日記では「山中王子」と書かれ、承元四年(1210)四月二十四日条に、修明門院が山中王子に参拝し、峠で雄山の人たちや無縁者等に、帷五、六十両ほどを、ふるまったと記されています。江戸時代には、道沿いに、周囲三十六間の境内があり、王子権現社が祀られていたようですが、明治時代に春日神社に合祀され、旧跡も鉄道の敷設によって無くなりました。
  
中山王子跡
平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、京都の貴族のあいだで熊野信仰が熱烈に広まり、熊野三山への参詣が盛んにおこなわれた。この熊野詣に主に利用された道が熊野街道であるが、その要所要所には、熊野三山を遙拝したり休憩するための施設(王子社)が設けられていた。熊野詣の旅は、京都を出発しておおよそ4〜5日で紀伊国に入るが、紀伊国で最初の王子社がこの中山王子社である。『後鳥羽院熊野御幸記』(建仁元年〜1202〜の後鳥羽上皇熊野参詣に随行した藤原定家の旅行日記)には、十月八日の頃に「天、晴る。ウハ目王子に参る。沢、中山王子に参る。」と記されている。ここから南へ約四キロ行くと次の山口王子社がある。

平成五年八月二日

   和歌山市教育委員会
    
山口王子跡
この地は、かつて、雄の山口の湯屋といわれていました(現在も湯屋谷という地名があります)。永保元年(1081)9月25日、藤原為房は、ここから国府の南路、日前宮を経由して藤代に向かっています。王子社名は、藤原定家の日記、建仁元年(1201)10月8日条や、藤原頼資の日記、承元4年(1210)4月24日条に見られます。定家は後鳥羽上皇に、頼資は修明門院に随行した時に、日記を書き残したのです。天保10年(1839)に完成した『紀伊続風土記』には、三橋王子とも書かれており、江戸時代には、境内の周囲が32間の王子権現社であったことが知られています。この王子社は明治時代の神社合祀で、山口神社に合祀されました。なお、古代に雄山に置かれていた関所は、白鳥関と呼ばれており、白鳥伝説を残しています。
山口王子跡
平安時代の終わりから鎌倉時代のはじめにかけて、京都の貴族のあいだで熊野信仰が非常に流行し、熊野三山への参詣が盛んにおこなわれた。この熊野詣でに利用された道路が熊野街道(熊野古道)であるが、この付近では現在の県道布施屋貝塚線となっている。熊野古道の要所要所には休憩のための施設(王子社)がつくられたが、この付近には山口王子社があった。明治時代までは神社があったが、明治末期に山口神社に合祀されたので現在は社殿は残っていない。山口王子社は紀伊国で北から二番目の王子社で、約四キロ北側には中山王子社がある。また、南西約三キロには川辺王子社がある。
 昭和五十九年九月一一日
和歌山市教育委員会
  
山口王子跡横の万葉歌碑
  吾が背子が あとふみもとめ 追いゆかば  紀の関守い 留めてむかも
   (あの方の後を追っかけて真土山まで行ったなら、紀伊の関所の番人は、引き留めるでしょうね)
神亀元年(724年)10月聖武天皇の玉津島行幸の際、お伴の中にある女性の恋人がいて、その人に送るために金村が女性から依頼されて作った歌である
    
川辺王子跡
藤原定家の日記、建仁元年(1201)10月8日条に「川辺王子」、藤原頼資の日記、承元4年(1210)4月24日条に「四橋」の王子名が見られます。四橋王子という名は、和泉国と紀伊国の境にあった境橋から数えて、四番目の橋付近にあったことから、名付けられたのでしょう。山口王子が三橋王子といわれたのも、このためだと思われます。この王子社は、『紀伊続風土記』によると、いつのころからか、八王子と呼ばれるようになり、江戸時代には川辺村(和歌山市川辺)の力持神社境内に鎮座したとあります。当地に残った旧八王子社を川辺王子跡と考証したのは、『和歌山県聖蹟』ですが、参詣道が不自然に迂回するため、川辺王子社は川辺村薬師堂付近にあったとする説もあります。
   
川辺王子跡
この川辺王子社跡は、現在、和歌山市上野二三番地にあたる。八王子社として祀られており、和歌山市内にある王子社跡のなかでは比較的古いおもかげを残しているところである。京都の貴族による熊野詣は、平安時代の終わりから鎌倉時代のはじめごろ(十一世紀終〜十三世紀初)に最も盛んにおこなわれたが、そのなかで建仁元年(一二〇一)の後鳥羽上皇熊野詣に随行した藤原定家の旅行日記である『御幸記』の十月八日の頃には「次に川辺王子に参る」と誌されている。川辺王子の位置については、いくつかの異なった考証があるが、この付近では熊野参詣道の道筋が時代によって多少変わったり、王子社の後身である神社が後世に移転したりしたためと考えられる。次の王子社は、神波を経て南東約一.二キロの楠本にある中村王子である。
平成五年八月二日
   
中村王子跡
川辺から神波、楠本にかけて、平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけ盛んにおこなわれた熊野三山への参詣(熊野詣)の道が通っていた。この参詣道の要所要所には、休憩や熊野三山の遙拝のための施設(王子社)が設けられており、この付近には中村王子社があった。楠本の古い地名が中村であったと伝えられているために、中村王子社と呼ばれている。川辺王子社や中村王子社の位置はいくつかの異なった考証があるが、これは熊野参詣道の道筋が年代によって多少変わったためと考えられる。中村王子社の次の王子社は、紀ノ川を渡って吐前王子社となる。
平成五年三月三十一日
   和歌山市教育委員会
   
力侍神社
力侍神社はもと天手力男命(あめのたちからおのみこと)を祭神とし、力侍神社の名前も手力男に由来している南から参道を通って社地に入るとと、向かって左側の社殿が本殿で、右側が摂社(合祀されて客分となった神社)八王子の社殿である。両社ともはじめからこの場所に建てられていたのではなく、力侍神社はもと神波に(現社地の北西約700メートル)にあり、その後上野(現社地の北西約1キロ)の八王子社境内に移り、更に江戸時代のはじめ[寛永3年(1626)]に両社ともにこの地に移されたと伝えられる。社殿は流造、一間社、檜皮葺きで正面と両側面には緑をめぐらし、擬宝珠高欄をおき、背面の見切に脇障子を構えている。身舎正面には引違いの格子戸を入れ、側面と背面には板張りの壁とする通常の形式である。両社殿とも建立年代を示す史料はないが、各部分の様式や技法からみて一六世紀終わり頃に建立されたものと考えられる。木鼻やかえる股などの彫刻も優れており、全体に建立の形態が良く保たれ、和歌山県内における桃山時代の神社建築の代表例のひとつとして貴重な資料である。
    平成五年三月三十一日 
    和歌山県教育委員会
   
叶崎王子跡
この王子社名は、藤原定家や藤原頼資の日記に見られます。頼資の承元4年(1210)の御幸随行の日記は『修明門院熊野御幸記』と呼ばれます。それによると、承元4年(1210)4月24日、修明門院は紀ノ川を、国司が用意した高欄・水引で飾った船で渡り、「在崎」の行宮に着きます。この在崎は、叶崎(叶前)の書き間違いと思われます。叶前では、紀ノ川の水で身心を清める水垢離を行い、祓いをして王子社に参拝するのが通例でした。江戸時代には、この王子社は王子権現と呼ばれ、付近は森に覆われていたようです。この案内板の北東に、かつて周囲より一段高くなった土地があり、そこに王子権現が祀られていましたが、現在は削平されています。地元の人は、この土地を「オコードー」と呼んでいます。御幸道、あるいは御幸堂のことかと思われます。
叶崎王子跡
熊野古道 吐前王子社
紀ノ川北岸の中村王子社から紀ノ川を渡って再び熊野参詣道は続いて行き、ここに紀伊国で北から5番目の王子社である吐前王子社が設けられた。
紀ノ川の渡河については、平安時代には詳しい記録はないが、鎌倉時代から室町時代の記録には現在の川辺橋付近を船や浅瀬を馬で渡ったことが記されている。
熊野参詣道はここからやや進んだところで一端西へ曲がり、次の王子社は現在の布施屋にある川端王子社である。   

     平成5年3月31日   和歌山市教育委員会

    
    
    

  

   

参考資料
  
近畿日本鉄道 http://www.kintetsu.co.jp/
JR西日本   http://www.westjr.co.jp/
   
   
近鉄乗車券  宇治山田-鶴橋 1750円
近鉄特急券 宇治山田-鶴橋 1280円
JR乗車券 鶴橋-山中渓 780円
JR乗車券 布施屋-鶴橋 1280円