力侍神社  2008.2
川辺王子跡の石碑が力侍神社鳥居下にもあった。どうも川辺王子跡の推定地はいくつかあるようだ。桜並木(勿論まだ咲いていないが)の続く向こうに力侍神社があるが、桜が満開ならさぞやきれいなことだろう。
  
力侍神社はもと天手力男命(あめのたちからおのみこと)を祭神とし、力侍神社の名前も手力男に由来している南から参道を通って社地に入るとと、向かって左側の社殿が本殿で、右側が摂社(合祀されて客分となった神社)八王子の社殿である。両社ともはじめからこの場所に建てられていたのではなく、力侍神社はもと神波に(現社地の北西約700メートル)にあり、その後上野(現社地の北西約1キロ)の八王子社境内に移り、更に江戸時代のはじめ[寛永3年(1626)]に両社ともにこの地に移されたと伝えられる。社殿は流造、一間社、檜皮葺きで正面と両側面には緑をめぐらし、擬宝珠高欄をおき、背面の見切に脇障子を構えている。身舎正面には引違いの格子戸を入れ、側面と背面には板張りの壁とする通常の形式である。両社殿とも建立年代を示す史料はないが、各部分の様式や技法からみて一六世紀終わり頃に建立されたものと考えられる。木鼻やかえる股などの彫刻も優れており、全体に建立の形態が良く保たれ、和歌山県内における桃山時代の神社建築の代表例のひとつとして貴重な資料である。
案内板説明より