修行門---金峯神社---西行庵---青根ヶ峰---林道吉野大峯線---青根ヶ峰---宝塔院跡---金峯神社---修行門---吉野水分神社---勝手神社---如意輪寺
---近鉄吉野駅---ケーブル吉野山駅---金峰寺---ケーブル吉野山駅---吉野神宮---柳の渡し---近鉄六田駅
   
2008年9月7日 晴れ
熊野古道を伊勢路、中辺路、大辺路、紀伊路と歩いてきて、小辺路ももうじき終了となった。あと残るのは大峯奥駈道となった。もともと修験者が修行のために吉野と熊野という二大霊場を駈け抜けた道で、険しい紀伊山脈を縦走するルート。私のような登山の経験もない、か弱い者が到底歩ける道ではないと思い、当初は歩き始めるなど思いもよらなかった。おまけに女人禁制の場所があり、その部分はたとえ十分な体力があっても無理。でも古道歩きで知り合った方たちの話を聞き、「よし、だめでもいいから歩けるところだけ、歩こう」と今回知人にも話を聞いて資料集めを始めた。電話で現地の様子などを尋ねたら、案の定、「登山をしたことがない方には無理なところもあります。エスケープルートもないところがあり、毎年のように捜索隊のお世話になる方がみえますよ。とりあえず吉野あたりから歩き始めてはどうでしょうか」と親切なアドバイスをいただいた。そこで今回大峯奥駈道の逆峯(吉野から熊野へ)を歩き始めることにした。本宮大社から吉野に縦走するルートを順峯、その逆を逆峯というらしい。吉野川河畔の柳の渡しが出発点とのこと。今回は帰りの交通の便のことも考え、近鉄、吉野ケーブル、吉野山バスを乗り継いで、先に奥千本、青根ヶ峰あたりまで行き、そこから吉野山を下り、柳の渡しまで歩く計画を立てた。
まだ夏の暑さが残る9月上旬、朝8時9分宇治山田発、近鉄特急で大和八木、橿原神宮前経由で吉野駅到着は10時25分(写真)。ここからケーブルで(写真)、吉野千本口から吉野山まで、その先はバスで奥千本口まで行った。各交通機関は乗り継ぎの便がよく、それほど慌てるわけでもなく、のんびり順調に歩き始めるポイントまで行った(11:04)。近鉄吉野線ではサクラライナーに初めて乗って年甲斐もなく少しうきうき。
修行門をくぐり、金峯神社への急な坂を登り(11:11)、義経隠れ塔(11:12)に立ち寄り、展望台から吉野の山々を見渡して、神社横の登り坂を西行庵目指して登って行った(11:21)。最初は石畳の坂道、ついで地道になり左は山上ヶ岳へという道標を右にとり(11:23)(写真)、手すりが付いた細い坂道、石段の道を登り、下りしながら行くと平地に出て、ここに庵と休憩所があった(11:39)。このあたりを奥千本という。鎌倉時代の初め頃、西行法師が俗界を避けわび住まいをしたところといわれている。この西行庵のなかには西行の坐像があった。休憩所に行くと先客がいて、ハンモックの中でゆっくりくつろいでいらっしゃった。話しかけると近くの方で休みになるとこのあたりの山でハンモック持参でのんびりしているとのこと。しばしお話を伺って、さきを急いだ。山道を苔清水を通り(11:49)(写真)、報恩大師修行之霊跡(12:01)を過ぎ、道標に従い山上ヶ岳の方面へ向った。途中女人結界の石碑のあるところに出た時は(12:13)(写真)、地図を見ながら「これは昔の話だな」と確かめながらここを越えて先へ進んだ。右手にはるか大峯の山が見え、天気も良くて素晴らしい眺めだった。この左上が青根ヶ峰の頂上らしい。やがて林道吉野大峯線に出た(12:18)。ここからも青根ヶ峰頂上に上る階段があった(写真)。ここで引き返すかどうか迷ったが天気も良かったので、林道を山上ヶ岳方面に向かいもう少し進んだ。右にそれると山上ヶ岳、四寸岩山方面という道標のあるところで引き返した(12:23)(写真)。今度は青根ヶ峰頂上を経由して(12:30)、先程の女人結界の石碑のあるところに出て(12:36)、宝塔院跡を通り(12:43)、金峯神社へ再び戻ってきた(12:49)。今度は西行庵を迂回しなかったので早く着いた。ここで休憩をして坂を下り、今朝バスを降りた修行門に出た(13:01)。ここから吉野の里まで舗装された道を下った。高城山展望台の横(13:10)、牛頭天王社跡(13:13)を通り、吉野水分神社に着いた(13:22)。山門は赤いが(写真)、本殿は木造のやや朽ち果てた風情のある建物だった。ここからつづら折れの坂道が続き(一応国道15号線)、道の両側にはぼつぼつと宿舎や店屋が見られるようになり、上千本から中千本へと向っていく。上千本口バス停に13時56分に着いた。竹林院、桜本坊(ここで如意輪寺への道と間違えて10分ほど時間をロス)を過ぎて中千本バス停(勝手神社前)に14時20分に到着。少し手前の朝日館というところで昼食をとった。如意輪寺を窓から眺めながら茶粥定食を食べてゆっくりした。この隣はサクラ花壇といって天皇陛下が昭和22年に宿泊したところらしい(写真)。昼食後勝手神社を見て(14:50)引き返し(14:54)、坂を降りて如意輪寺へ向った。勝手神社は少し前に放火があり、以来中には入れなくなったらしい。山道を登ったり、下ったりしながら15時9分如意輪寺下の階段に着いた。如意輪堂、後醍醐天皇陵をたずねて(15:14)(写真)、再び15号線に出て吉水神社、東南院に行く予定だった。この頃からポツリポツリを雨が降ってきたが、幸いにも大したことはなく、すぐあがった。気持ちよく道を下っていき、ちょっとおかしいとは思いながら先を急いだ。向こうの山の上をケーブルが通っているのが見えて、道を間違えたのを確信。左に道をとったが(ここで7分のロス)、そこからもう近鉄吉野駅が見えていた。16時に近鉄吉野駅に着いた。仕方がないのでここで、10分ほど休憩、買い物をして、金峰寺、吉野神宮へ行く道を聞いた。「坂を登って山の尾根に出て進んでください」とのこと。ご親切にケーブル駅脇からの近道を教えてくださった。急坂を登って参道に出て左折。ケーブル吉野山駅の横を通って、黒門を過ぎ(16:35)(写真)、金峰寺仁王門に16時41分に着いた(写真)。あわてて国宝の蔵王堂、威徳天満宮をたずねて、再び坂を下り、ケーブル吉野山駅横を通り(16:56)、吉野神社へ向った。道を間違えたため予定の時間を過ぎていたので今回勝手神社、金峰寺間は省略。七曲り下の千本、村上義光の墓の石碑を横目に急いで坂を下って吉野神宮鳥居にたどり着いたのは17時21分。夕暮れでもう人の気配はなかった。人気のない神宮は中々良いものだ。伊勢神宮も夕暮れ時の静寂が好きだ。坂の下の鳥居から出て国道15号線を下り、すぐ左の細い道長峰道へと進んだ(17:35)。この頃はかなりあせって知らず知らずのうちに小走りになっていたと思う。木々の間から眼下に吉野川が見えてきた。右にお堂があり、柳の宿一之行者堂の看板があった(17:45)。里に降りたが吉野川を渡る美吉野橋へ行く道がわからない。吉野駅で聞いたとき、「まず吉野神宮へ行く道、そこを過ぎたら2つ目の鳥居の先を左に道をとり、坂を下ったら、そこでもう一度”柳の渡し”または”六田”へ行く道を聞いてください」とも親切なアドバイスに従い、道の住人の方に訪ねて先を急ぎ、橋を渡った(18:00)。橋の上から見た夕日がきれいだった(18:02)。橋を渡って左折し左に柳の渡し跡の燈籠を見て(18:04)、急いで近鉄六田に向った。確か18時10分頃の特急があったはず。駅に着くとちょうど特急が入ってきたところ。特急券を買う時間もなく、列車到着後踏み切りを開けてもらって滑り込みセーフで飛び乗った(18:13六田発)。その後は特急の連絡もよく順調に家路に。宇治山田駅に20時13分に着いた。昼食まではのんびり、その後は大慌ての吉野山歩きだった。果たしてこれから先、大峯奥駈道を歩くことができるかどうか、心配だ。

 

案内板の説明
歴史的概要
大峯奥駈道は、日本独自の山岳宗教「修験道」の開祖・役行者が、白鳳時代(7世紀)に開いたと伝えられ、吉野と熊野という修験道の二大霊場を結ぶこの道は、修験者(山伏)にとって最も厳しい修行の道場とされる。すでに平安時代(794〜1192)には、熊野から吉野に至る大峯の峰通りに通じる奥駈道の随所に、霊地や行場あるいは宿が設けられており、120ヶ所の宿があったとされる。その後に42宿に整理されたが、近世にいたって峯中の霊地、行場が75ヶ所に整理され「大峯七十五靡」と呼ばれるようになった。靡とは役行者の法力に草木もなびくという意味があるとされ、修験道に関わる神仏の出現地、あるいは居所とされている。
熊野から吉野へと歩く行程を「順峯」、逆に吉野から熊野へと歩く行程を「逆峯」というが、現代では殆どの修験道が逆峯によって修行することが多い。また、近世以降に、吉野から山上ヶ岳(俗にいう大峰山)に参詣する「山上詣り」の風習が、一般庶民にまで広がるようになったことから、山上ヶ岳より更に奥に入って修行することを「奥通り」と言うようになり、近年では「奥駈」と呼んでいる。行程の順路や呼称が変わっても、大自然の中で心身の鍛錬を行う修験者が修行する祈りの道であることは、今も変わらない。
   
金峯神社と隠れ塔
この神社は金山彦命を祭る吉野山の総地主の神で、一名金精明神ともいって古くから信仰を受けてきた延喜式内社です。金峯というのは、この辺りから大峯山へかけての総称で、古来地下に黄金の鉱脈があると信ぜられて、宇治拾遺物語その他にも、この山に登って黄金を得たという話があります。これは仏教説話として、金峯山は黄金浄土であるという観念から生まれたものです。左の小道を下った所にある建物は、隠れ塔といって、ここは大峯修業場の一つで、この塔に入って扉を閉じると中は真っ暗になります。そこで神宮の先導に従って
  吉野なる深山の奥のかくれ塔  本来空のすみかなりけり

と唱えながら塔内を巡ります。文治元年(二八五)十一月 源義経がこの塔に隠れ、追っ手から逃れるため屋根を蹴破って外へ出たため、「義経の隠れ塔、蹴抜けの塔」ともいわれています。

吉野町観光課

西行庵

この辺りを奥の千本といい、この小さな建物が西行庵です。鎌倉時代の初めのころ(約八百年前)西行法師が俗界をさけて、この地にわび住まいをした所と伝えています。西行はもと、今日の皇居を守る武士でしたが世をはかなんで出家し、月と花とをこよなく愛する歌人となり、吉野山で詠んだといわれる西行の歌に

とくとくと落つる岩間の苔清水   汲みほすまでもなきすみかかな

  吉野山去年の枝折の道かへて   まだ見ぬ方の花をたずねむ
  吉野山花のさかりは限りなし   青葉の奥もなほさかりにて
  吉野山梢の花を見し日より    心は身にもそはずなりにき

この歌に詠まれた「苔清水」はこの右手奥にあり、いまなおとくとくと清水が湧き出ています。旅に生き旅に死んだ俳人松生芭蕉も、西行の歌心を慕って二度にわたり吉野を訪れ、この地で

  露とくとく試に浮世すすがばや
と詠んでいます。

吉野町観光課

報恩大師

 この付近にあったと思われる、安禅寺宝塔は、報恩大師の建立で、千手観音ならびに二十八部衆を安置していたと伝えられ、吉野金峯山が寺院化したのはこのころと考えられています。『金峯山創草記』

報恩大師は、三十才にして吉野山に入り観世音呪を持した。天平勝宝四年(七五二)、孝謙天皇のご病気を加持した功により、報恩の名を賜ったという。また桓武天皇が長岡宮で沈痾に伏せられた時、観自在根本呪を誦して治されたと伝えられています。『元亨釈書』
 養老二年(七一八) 岡山市芳賀 に誕生
 竜王山神宮寺(現・ 岡山市 最上稲荷山妙教寺)等を開創
 延暦十四年(七九五)大和子島寺にて七十八才をもって還化

最上稲荷顕修会

   
宝塔院跡

このあたり一帯を宝塔院跡とよんでいますが、かつてどこに宝塔院という建物があったのか定かではありません。明治初年の廃仏棄釈の嵐に見舞われるまでは、この付近に多宝塔、四方正面堂安禅寺蔵王堂など大小の寺院が点在していたようでここから西行庵へくだる途中にその屋敷跡を思わせる平坦なところが見られます。 いま蔵王堂の内陣に客仏としてまつられている身の丈四メートル余りの、木造蔵王権現立像(重文)も安禅寺蔵王堂の本尊としてまつられていたものでした。 ここから奥へ続く山道は大峯山への修験の道で、一キロほど行くと慶応元年(一八六五)建立の女人結界碑があり、またその後ろの山が吉野山で一番高く、万葉集にもうたわれた標高八五八メートルの青根が峰です。

吉野町 観光課

  
吉野水分神社   別称 子守宮
由緒沿革
創立年代は不詳ですが一千年前の延喜式神名帳にすでに大月次新嘗に案上官幣に預る旧社にて大和四処水分の第一として記され吉野八大神伺の一社で俗に子守大明神と申されます。水分とは「水配」の意味で水を程よく田畑に配分する神様を毎年43日に五穀豊穣を司る御田植祭が盛大に行われ、その神事は吉野町の無形文化財として指定されています。当神社が子守の神になったことについては「水配」が「みくまり」「みこもり」「こもり」と転訛して子供を護る神、子供を授ける神になったと言われています。当神社の本殿は祭神七柱を三つの社殿に奉祀し、その三つの社殿を一つの棟につないだ珍しい建築様式で水分造りと申されます。現在の建物は豊臣秀吉が文禄3年に吉野山に花見に来られた時、当神社に祈願して秀頼が授かりそのお礼として慶長3年に再建の工を起こされた後、秀頼が父秀吉の遺志をつぎ建部内匠頭、光重を奉行として慶長99月に完成されたもので華麗かつ精巧を極めた桃山時代の代表的神社建造物として建物全部が国の重要文化財として指定されています。神社の宝物としては重文の豹燈籠、神輿、湯釜等秀頼寄進の銘のあるものが社殿に置かれています。御祭神の玉依姫命の御神像は日本第一の美女神像といわれ国宝に指定されています。国学の奉斗として有名な本居宣長はこの子守の社の申し子として名高く宣長の著である菅笠日記にこの事がよく書かれています。今も子供を授ける神、子供を護る神、安産の守護神として世間の信仰をあつめ全国各地よりの参詣が絶えません。宣長翁が当社へお札参りの折に詠まれた歌に
     みくまりの神の誓ひの なかしせは
     これのあが身は 生れこめやも
     ちちははの昔想へば 袖ぬれぬ
     みくまり山に 雨はふらねど
   
如意輪寺

 専横の北条幕府を倒し、建武中興をなしとげた後醍醐天皇は、足利氏との争いのため京都を逃れ、吉野山へ行幸以来四年間、吉野の行宮に過ごされました。延元四年(一三三九)病床に就かれ「身は仮へ南山の苔に埋むるとも魂魄(たましい)は常に北闕(北の方京都)の天を望まん」と都をあこがれ、遂に崩御されました。天皇の遺骸をそのまま北向きに葬ったのが、塔尾陵です。次帝後村上天皇の正平二年(一三四七)十二月楠木正行公の一族郎党百四十三人が、四条畷(大阪府)の決戦(足利の武将高師直との戦)に向うにあたり、吉野の皇居に天皇と今生の別れを告げ、先帝の御陵に参拝の後、如意輪堂に詣で髻を切って仏前に奉納、過去帳に姓名を記し最後に正行公は、鏃をもって御堂の扉に

    かゑらじとかねておもへば梓○
        なき数に入る名をぞとどむる

と、辞世の歌を残して四条畷に向いましたが衆寡敵せず、弟正時と共に最後をとげました。現在の建物は、約三百五十年前の再建で、正行公の歌をとどめた扉は寺宝として、宝物殿に保存されています。

   
威徳天満宮(県指定文化財)

 この神社は、天満神社ともいい、菅原道真を祭神としています。社伝によると、平安時代の天徳三年九月五日に鎮座したとされています。 この神社の由緒は、今から千年あまり昔、椿山寺(竹林院の前身)で出家した日蔵道賢(如意輪寺の開基)という僧が、大峯山中の笙の窟というところで修行中のある日、急に仮死して閻魔宮へ行ってしまい、そこで冥土をさまよっている天子の衣服を着けた人に出会ったので、わけをきくと「自分は延喜の帝(醍醐天皇)である。生前は善政を行ったつもりだが、ただ藤原時平の告げ口のよって、菅原道真を九州の大宰府へ流してしまった。その罪によって死後の苦しみに会っている。生前、私が師と仰いだ上人よ。再び生き返って道真の霊をまつって欲しい。そうしたら私はこの苦しみから救われるだろう。」といわれたと思うと、日蔵はこの世によみがえりました。 日蔵上人は修行を終えると吉野山に帰り、威徳天満宮としてまつったのが、この社殿であると伝えられています。 この社殿は、桃山時代の様式をよく伝えているので、豊臣秀頼の改修によるものと云われています。現社殿は、平成十年九月に当地を襲った台風七号により大被害を受けましたが、平成十三年に多くの方々のご助力により復旧したものです。

吉野町文化観光商工課

  
金峯山寺  概要

創立年代不詳。寺伝によると白鳳年間(7世紀)に修験道の開祖役行者によって創建されたという。金峯山寺は平安時代(794〜1192)からの修験道の隆盛により、天皇家をはじめ公家や武家からの厚い帰依を受け、数多い末葉寺院や広大な寺領を誇っていたと伝えられている。

この本堂は、山上ヶ岳頂上にある山上蔵王堂(大峯山寺)に対して山下蔵王堂と呼ばれ、修験道の霊場である吉野・大峯の中心的伽藍として信仰を集めてきた。文献上では康和5(1103)年に存在したことが確認されるが、現在の建物は、天正20(1592)年に再建されたものである。高さ33.9m桁行7間25.8m、梁間8間27.3mの一重裳階付入母屋造り檜皮茸の木造建築で、修験道の中心寺院として相応しい威容を誇っている。堂内には修験道の本尊である金剛蔵王権現の巨像三体(国指定重要文化財)や役行者などを安置している。堂内の柱は全部で68本あり、一本として同じ太さのものはなく、すべて自然木を素材そのまま使用している。柱の材質も様々で、杉、桧、欅などの他に梨やツツジの柱もあり一定しない。この堂では、本尊に桜花を供えて人々の罪科を懺悔する「花供懺法会(花供会式)」や、神仏を悔ったために蛙の姿に変えられた男が懺悔して、僧侶の法力によって人間の姿に戻されたという伝説に基づいた「蓮華会蛙とび行事」などの伝統行事が、毎年盛大に行われている。
   
七曲り下の千本

 吉野駅から弊掛社をへて、吉野山へ登る急坂を七曲りといいますが、この付近一帯に植わっている桜が下の千本で、昔の一目千本というながめもこの辺りのことをいったものです。元禄のころの「吉野紀行」という書物に「日本が花」七曲りなと過ぎゆくに、もろ人桜苗を求め植えて蔵王権現に奉る。みずからも又桜三十本を植えさせて

     いつかまた防ふといひつつみ吉野の
          わが植えおきし花を来て見む
とあり、同じころの貝原益軒の「和州巡覧記」という本にも「七曲り、この坂に村童ども多く桜苗を売りて、すなわち唐鍬をもって植える。下の谷を桜田という名所也」と書かれています。これを見ると吉野山に登ってくる人は、ここの桜は蔵王権現に供えるためにあるのだ。という考え方が徹底していたようですし、又地元の人も桜苗を栽培していたことがわかります。それにしても、今は昔ほど桜を大切にしようという気風が、うすれてきているのは残念ながら事実です。それは蔵王権現に対する信仰のすたれということもあるでしょうが、それに代って自然と伝統をより大事にしようという、素朴な心を養うことを、もっと真剣に考えられてよいはずです。この付近は、そういうことも伴せて考えさせるところでもあるのです。

吉野町

   
世界遺産「大峰奥駆道」   第75番靡「柳の宿」(一之坂行者堂)
紀伊半島の中央を貫く大峯山脈の稜線上を走る大峰奥駆道、その中には七十五ヶ所の山伏の行所が設けられ靡と呼ばれている。吉野川に架かる美吉野橋の下流に、かつて「柳の渡し」があった。現在もこの「柳の宿」大峰奥駆道の北の起終点で、その「柳の宿」から吉野山への最初の坂道を「一之坂」と呼び、大正の頃まで多くの人々が行き交った。しかし昭和に入り、行き交う人もなくなり、坂の中程にあった、一之坂行者堂も荒れるに任せていた。時が流れ、そのお堂の惨状を嘆く篤信の若干名が発起し、大峯山寺並びに修験三本山など、又個人からも浄財を募り、平成19年8月崩れ落ちていた宝篋印塔とともに、この地に行者堂が移転再建されるに至った。世界遺産「大峰奥駆道」の入り口に建つこのお堂の役行者尊に多くの方々が参拝され、世界平和を祈る拠点の一つに成り得ることを心より願うものである。
第75番靡大峰奥駆道 「柳の宿」(一之坂)行者堂再建発起人一同
平成19年9月吉日
   
柳の渡し(六田の宿)
このあたりは、対岸の大淀町北六田とを結ぶ渡河地点として、古くから開けたところです。平安時代に、大峯山中興の祖といわれる、山城醍醐の僧、聖宝理源大師が初めて渡し場を開いたと伝えており、以来吉野山から大峯を経て熊野へ駆ける、修験者の水垢離場として尊ばれてきました。今の美吉野橋は、大正8年(1919)になって架けられたもので、それまでは、舟や徒歩で川越をしたものでした。したがってこの付近は、大和平野や大阪、和歌山方面からの修験者や、吉野山への花見客でにぎわい、又吉野川をくだす”筏”のたまり場でもあったので、宿屋や茶屋が立ち並んで、宿場町としても栄えた所です。今建っている石の像は、修験道の開祖役行者像で、願主の名とともに「世話人船仲間」の銘も見え、毎年9月7日に行者まつりが行なわれます。

吉野町

   
柳の渡し(町指定文化財)
「柳の渡し」は、大淀町北六田と、南岸の吉野町六田とを結んだ渡しで、平安時代に醍醐寺の開祖・聖宝理源大師(832-909)が開いたとされ、美吉野橋がかかるまで、「桜の渡し(桜橋)」「椿の渡し(椿橋)」「桧の渡し(千石橋)」とともに、大いに賑わった。その北岸には柳が茂り、天明6年(1786)建立の道標を兼ねた石灯篭や石造の道標が残る。これらは、現在地よりやや上流にあった元来の渡し場から、この前を通る道路の拡張に伴い、移設したものである。平成17年6月21日、町指定文化財(史跡)となる。なお、六田の淀の清流の風情については、奈良時代に成立した万葉集のなかで、次のように詠まれている。
 音聞 目者未見 吉野川 六田之與杼乎 今日見鶴鴨 (巻7-1105) 
     おとにきき めにはいまだみぬ よしのかは むつたのよどを けふみつるかも
 河蝦鳴 六田乃川乃 川楊乃 根毛居侶雖見 不飽河鴨 (巻9-1725)
     かはづまく むつたのかはの かはやぎの ねもころみれど あかねはかも

平成17年6月         大淀町教育委員会

 

 

参考資料
  
近畿日本鉄道 http://www.kintetsu.co.jp/
吉野ケーブル  http://www.yoshino-oomine-ke-buru.com/
吉野山バス  http://www.yoshino-oomine-ke-buru.com/
   
近鉄乗車券  宇治山田-吉野 1780円
近鉄特急券 宇治山田-吉野 1280円
近鉄乗車券 六田-宇治山田 1670円
近鉄特急券 六田-宇治山田 1280円
吉野ケーブル 吉野千本口-吉野山 350円
吉野山バス 吉野山-奥千本口 500円