吉野水分神社  2008.9
   
創立年代は不詳ですが一千年前の延喜式神名帳にすでに大月次新嘗に案上官幣に預る旧社にて大和四処水分の第一として記され吉野八大神伺の一社で俗に子守大明神と申されます。水分とは「水配」の意味で水を程よく田畑に配分する神様を毎年43日に五穀豊穣を司る御田植祭が盛大に行われ、その神事は吉野町の無形文化財として指定されています。当神社が子守の神になったことについては「水配」が「みくまり」「みこもり」「こもり」と転訛して子供を護る神、子供を授ける神になったと言われています。当神社の本殿は祭神七柱を三つの社殿に奉祀し、その三つの社殿を一つの棟につないだ珍しい建築様式で水分造りと申されます。現在の建物は豊臣秀吉が文禄3年に吉野山に花見に来られた時、当神社に祈願して秀頼が授かりそのお礼として慶長3年に再建の工を起こされた後、秀頼が父秀吉の遺志をつぎ建部内匠頭、光重を奉行として慶長99月に完成されたもので華麗かつ精巧を極めた桃山時代の代表的神社建造物として建物全部が国の重要文化財として指定されています。神社の宝物としては重文の豹燈籠、神輿、湯釜等秀頼寄進の銘のあるものが社殿に置かれています。御祭神の玉依姫命の御神像は日本第一の美女神像といわれ国宝に指定されています。国学の奉斗として有名な本居宣長はこの子守の社の申し子として名高く宣長の著である菅笠日記にこの事がよく書かれています。今も子供を授ける神、子供を護る神、安産の守護神として世間の信仰をあつめ全国各地よりの参詣が絶えません。宣長翁が当社へお札参りの折に詠まれた歌に
     みくまりの神の誓ひの なかしせは
     これのあが身は 生れこめやも
     ちちははの昔想へば 袖ぬれぬ
     みくまり山に 雨はふらねど

案内板より