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楊枝口---三和大橋---県道小船紀宝線---宣旨帰り---比丘尼転び---飛雪の滝---新熊野大橋---速玉神社---神倉神社
     
2007年11月10日〜11日 晴れ 
 熊野参詣 で本宮から新宮へは川下りをしたことが知られている。しかし一般庶民は船賃のかからない陸路を選んだと考えられている。その一部が熊野川沿いを走る現在の県道小船紀宝線で、古来川又街道と呼ばれてきた。
中辺地のうち川又街道(かわたけかいどう)は以前車で通ったが、まだ歩いていなかった。それで中辺路で最後に残ったこのコースを今回歩く計画をたてた。前日の午後伊勢市を発ち、その日は新宮に泊まった。新宮市役所近くのユーアイホテルに宿泊(写真)。リーゾナブルなシティーホテルだった。翌朝7時43分新宮駅発の奈良交通のバスで今日のスタート地点に向かった。本来はこのバスは日足には停車するが、楊枝口には止まらない。しかし乗客は私以外にいなかったので、特別に楊枝口で降ろしてもらいラッキー。少し雨がパラパラしはじめていたが、大したことはなく、三和大橋を渡り始めたのは8時23分。橋上から見る紀伊の山々に、もやがかかり、幻想的だった。橋を渡って階段を降りて、県道小船紀宝線に出た。路肩が崩れているため通行禁止のたて看板があったが、歩行者は大丈夫だろう。そのためか車の通行量は少なく歩きやすい。最もこの道、以前に経験済みで狭くて車ではあまり通りたくない道だ。今日のコースはほとんどこの県道を歩く。すぐに道端に道標地蔵があった。和気の集落を過ぎると河原にゴルフ場があり、休日ということもあって車が数台入っていった。道端には道標地蔵がいくつかあり(写真)(写真)、やがて県道はだんだん狭くなり、木々の間から熊野川を右手に見ながら進むと子ノ泊山登山口の標識が左手にあった(9:22)。三和大橋から1時間35分で宣旨帰り(でんじがえり)の案内板のあるところに来た(写真)。反対側からちょうど1グループがこの道を出てくるところだった。熊野川には川下りの船がちょうど見えた(写真)。「宣旨帰り」の名は天皇の使者が、本宮から新宮に向かう途中、増水のため通れず帰ってしまった故事に由来する。道は崖と川の間に這うように造られており、これでは大雨ですぐに通行できなくなったのだろう。川下りの船から見ると、ここを歩いている人は頼りなげな崖っぷちを歩いている様子がよくわかると思う。実際船から見たときは崖にへばりつくように歩かなければならず、一歩間違えば、川に転落と思っていたが、道は険しいものの川までの距離は少しあり、一安心。25分で新宮側の宣旨帰りに出た。県道を歩いて小鹿の集落を過ぎて少し行くと、左手に比丘尼転びの本宮側の案内板があった(10:49)(写真)。入り口はわかりにくいが、看板がしっかりしているので見逃すことはない。細い険しい山道だが、距離はそれほどない。出口は急で、木のはしご(木に滑り止めが打ってある)がなければ本当に転びながらでないと下りていけそうもなかった(写真)。ネットの裂け目をくぐって県道に出るとここにもしっかりとした案内板があり、どちらの方向から入っても迷うことはなさそうだ(11:07)。比丘尼という尼が本宮まで後一日という処まで差し掛かって、一休みしてからこの難所を越えようと腰を下ろしたところ、長旅の疲れのためそのまま不帰の人となったという故事から「比丘尼転び」と名がついたそうだ。県道に再び出て進むと左は崖、右は川という狭い道が急に開け、飛雪の滝があるキャンプ場に着いた(11:21)。滝にはちょうど虹がかかって美しかった。ここでゆっくり休憩してコンビニで買った昼食をとった。ベンチにゆっくり腰掛け、風がさわらかで、気持ちよかった。公園の端にある浅里神社の寄り(11:50)(写真)、ここで古道は県道を離れて熊野川の土手の上を歩くことになる(写真)。右に墓が見え、ここから土手を下りると、道端に地蔵は何体か並んでいた(写真)。説明はなかったが、きっと古道に関連したものだろう。この道をまっすぐ行くとやがてT字路で、再び県道小船紀宝線に出た(12:06)。ここを右折して新宮方面に進むとすぐに川の中に昼嶋が見えた。道は昼嶋を回りこむようになっている。昼嶋展望台には川を望むように地蔵があった(写真)。この後は延々と県道を歩いた。県道沿いには子安地蔵(写真)、道標地蔵(写真)、祠(写真)があった。右に熊野川が見え、きらきら光ってきれい。乙其(おもと)の渡し場跡に着いたのは13時49分だった(写真)。御船島を過ぎ(14:05)、新熊野大橋を渡って(14:36)右折すると速玉神社はすぐそこだ。速玉神社で古道歩き二度目の参拝をした(14:46)。帰りのJRまでかなり時間があったので、道端のベンチに腰掛ゆっくり休みながら「さあどこへ行こうか。」この時以前ガイドをしてもらった方が「神倉神社もぜひ訪ねてください。」と言っていたのを思い出した。新宮市内の北側の道を行けばそれほど遠くはなさそうだ。538段の階段を登るだけの体力が残っているかどうか気になったが、とりあえず行ってみよう。山の裾野に鳥居があり、静かな佇まい(写真)。行ってみると古道歩きをしてきたと思われる人が結構来ていた。この石段は神社の石段にしては不揃いで急勾配なので、まるで古道を歩いているようだ。急な石段を登るとゴトビキ岩を後に社があり、熊野の花の巌に石の感じが似ていた。ここからの新宮市内の眺めは絶景。夕日に映えて美しい。2月6日には火祭りがあり、松明をつけてこの階段を一斉下りるお祭りはすごいだろうな。ぜひ一度見てみたいものだ。
予定通り新宮発17時25分発南紀8号に乗って自宅に20時30分頃着いた。21km+αの歩きだったが、山道が少なかったので予定より早く到着し、おかげで神倉神社にも立ち寄れてよかった。

 

案内板の説明
  
宣旨帰り(せんじかえり)
『紀伊読風土記』後白河上皇御不豫の時、勅使ありて飛鉢の森の専念上人を召しけるのこの時上人は楊枝村の岡という所に在りしかは、勅使これより帰れ故に宣旨帰りて云ひしを後世あやまりてデンシ帰りと云う。また天使帰り、犬戻りともいう難所。『浅里郷』宣旨帰の通説は、勅使が、本宮権現に勅願を奏し更に新宮権現に向かう途路川止めに遭い和気の旅所で七日間減水を待つが川岸の街道は水没した儘現れず和気の旅所から引き返したと言うのが広く囁かれる宣旨帰りの故事である。
   
   
比丘尼転び(びくにころび)
『紀伊読風土記』川の右に添いて下は骨島より上は小鹿までの間数十歩の険路をいう。最も難所なれば牛馬通路なく、上は絶壁にて下は大川の深淵に臨むを以って土人といえども岩に手を懸けされば越えがたし。『浅里郷』熊野三山から諸国に御師を送り各地に熊野神社を祀っていて、熊野権現から曼茶羅を携えた比丘尼に各地を巡らせて御師の宿を拠点に布教に努めた結果という。或る時任務を終えて熊野へ帰り本宮山へ後1日の所迄辿り着き街道一の難所に差し掛かって一休みしてから難所を越えようと腰を下ろす、女独り旅の緊張がほぐれた安堵と、長途の疲れに襲われて再び立ち上がることは出来ないで、不帰の人になる。里人は懇ろに葬り遺品を本宮権現へ届けたと言う。以来、此の難所を比丘尼転びと呼んでいる。
     
   
   
飛雪の滝
高さ 三十メートル・幅十二メートル
昔は竹の谷にかかる滝であることから『竹の谷の滝』と呼ばれていたが、和歌山県藩主徳川頼宣(南龍公)がこの滝を誉め
          重畳千山万水囲 幾重なす山をめぐりて川豊か
        有余秋色有光輝 物は皆装いこらす秋の色
        一条瀑布落厳畔 滝つせの一すじかかる岩の辺の
      乱沫随風作雪飛 風ふけばしぶきさながら雪の舞
と詠った。それ以来『飛雪の滝』と呼ばれるようになった。
この滝は、古来から自然崇拝の御神体になっており、そのため上流の二の滝にかけては浅里神社の神域とされ、昔は午後六時以降は滝へ行くことを禁じられていた。現在でも神社内に飛滝神社として祀られている。
   
   
浅里神社
現状  本殿 神明造、社務所 切妻造、神紋 三巴
祭神  応神天皇(おうじんてんのう)
祭神    応神天皇 (おうじんてんのう)
訶遇突智命 (かぐつちのみこと)
倉稲魂命 (うかのみたまのみこと)
市杵島姫命 (いちきぬしまひめのみこと)
当社は、昔から現在地に祀られていた。明治43年11月25日許可を得て境内三社が同年12月5日合祀された。
       応神天皇は、 当社の祭神である。
訶遇突智命は、 境内社秋葉神社の祭神であった。
倉稲魂命は、 境内社稲荷神社の祭神であった。
市杵島姫命は、 境内社弁天財天が祭神であった。
然しいずれも明細帳には不詳とある。
例祭 1月15日   秋祭 11月1日
     
    
   
子安の地蔵
所在地 紀宝町浅里字松尾
信仰説話としてふさわしく語り継がれているもののなかに子安の地蔵がある。浅里の東南部に「志やのかみ」と言う山深いところがある。ここで新田を開き暮らしをたてていた百姓がいた。倅に嫁をめとって一家平穏に過ごしていた。秋も深まった頃、家族総出で稲刈りに出ていた。臨月の若嫁が独り残って家事をしていたところが急に産気づき、誰もおらず意外の難産の苦しみに耐えかねて峠近くまで這い上がり、まとっていた物に火をつけて自ら身を焼いて果てた。これを聞いた村人達は、ねんごろに埋葬して苦しみながら途絶えた二つの命の成仏を願った。後年、この地に桜児を抱いた女身を浮き彫りにした像を建てて供養した。そして後年、人妻たちが子宝に恵まれるよう、安産のご加護を願って香をあげ祈願する人が訪れるようになった。地蔵像には「天保8年熊谷向某」と刻まれている。これは天保8年に起きたことで明治の初年に熊谷某が建立したと考えられる。年の移りとともに足を運ぶ人もまれになり雑草におおわれていたが、昭和58年近在の有志によって熊野川沿いの県道脇、松風の滝尻に安置された。これが子安の地蔵尊として再び香を手向ける人が見られるようになった。

紀宝町教育委員会

     
荘司家の聖石
所在地  紀宝町北桧杖 荘司家裏庭
現状    荘司家の前庭の正面、登り石段の中段にあったものを屋敷改造の際裏庭に移され保存されている。高さ約1メートル、径約50センチの円錐形の石英粗面岩(鬼御影)で風化し苔むしている。聖石という名のようにいかにも由緒ありげで風格がある。
説明    荘司家は北桧杖のいわゆる庄屋で古文書にもその名が記載されているが、同家は火災(大正3年)のため記載されたものは何一つ現存していない。同家に伝えられるところによれば古来熊野速玉大社に仕える聖が、毎年神倉神社火祭りの際、7日7夜の修行の後、当家に来てこの石の前で印綬を受け初めて聖の資格を与えられ神に仕える身となった。当家で行なわれた最後の儀式は明治2年(1869年)梅松が二歳のとき執り行ったとのことである。神聖視されてきた理由は儀式に使われた石というところにあるようだ。紀伊続風土記によれば「鎌倉時代神仏習合によって山伏が生まれ、それを志す修験者は定められた場所で一定の荒行を終え、最後に総仕上げとして神倉神社での最も厳しい修行に耐えた者が桧杖の荘司家に行き、聖石の前で荘司家の当主から『聖』の称号を許されたのである」とされている。

紀宝町教育委員会

     
     
乙基(おもと)の渡し場跡
所在地  紀宝町北檜杖字尾友
説明  新宮から本宮への通行は、平安時代の上皇の熊野参詣を含め、熊野川の船が多く利用されている。しかし、陸路も重要な幹線道であったが、和歌山県側には道がなく、三重県側の熊野川沿いの道が利用されていた。この道は古くは定かでなく、明治以降には紀和町小船まで延長されるが、近世は紀和町和気までであった。「乙基の渡し」は、この幹線陸路と新宮を結ぶ「渡し」であるが、中世末までの状況は定かでない。江戸時代では、北檜杖の荘司家が二人の渡し守を雇い運営しているが、渡し賃・六文のうち五文は寺社の取り分である。(他の渡し、新宮・本宮間舟行でも一部を徴収している。)但し渡船を十年毎に新造する時は寺社から祝儀がでるが、内容は時代で変わり、米一俵づつとか壱貫文があり、古船なら五百文という記録もある。また、明治三年と四年の長井村(熊野川町)の記録に「尾友渡し用として米五升七合」とあるので、近隣の村々からも何かが出ていたのだろう。明治政府への移行が進むなかで運営方法も変わっているが、大正九年プロペラ船就航で遠距離客がなくなり、北檜杖鮒田間の道路改修で使命を終え昭和三十五年ごろに廃止されている。

紀宝町教育委員会

     
   
国史跡 熊野三山 熊野速玉大社 御船島
御船島は行政的には三重県南牟婁郡紀宝町に属するが、熊野速玉大社の境内の一部で、熊野速玉大社の例大祭御船祭で祭礼の場となる島である。御船祭は熊野夫須美大神が年に一度、神幸船で御船島に渡り、再び速玉大社の社殿に還ってくるという行事で、夫須美大神が来臨した姿を毎年複演している祭礼である。神輿から神霊が諸手船に曳かれた神幸船に移されて神楽を奏すると熊野大橋下の川原で艫を岸につけて一列になっていた九漕の早舟が一斉に岸を離れ、御船島を三周して対岸の相筋川原にゴールする上りの早舟競漕が始まる。上りの早舟競漕が終了すると、斎主船に曳かれた諸手船、神幸船が上ってくる。諸手船の上では女装の演者が櫂を回して行く手を遠望するしぐさの「ハリハリ踊り」が行われる。斎主船が相筋川原に着くと、御船島の上に立つ神職の合図で、下りの早舟競漕がスタートする。岸で待機していた早船が、御船島を二周して神社裏の川原にゴールする。勇壮な競漕をみせる早船は、古式を保った舟形で鯨船の祖形といわれ、中世に強力な武器をもってその名を知られた熊野水軍の面影を偲ばせるものである。『夫木和歌抄』という鎌倉後期の私撰和歌集に御船島が登場する歌がある。
三熊野のうらわにみゆるみふね島  神のゆききにこぎめぐるなり

紀宝町教育委員会

     
  
神倉神社
 御祭神 高倉下命 たかくらじのみこと
天照大神 あまてらすおおみかみ
 例祭 2月六日夜
御灯祭りという古儀の特殊神事として名高い。白装束に身を固めた祈願者が神火を松明にうけて急坂(源頼朝公御寄進の鎌倉式石段)を駆下る壮観な火祭である。
 御由緒 熊野権現として有名な熊野速玉大社の摂社である。熊野三山(速玉・那智・本宮)の主神降臨の霊地、熊野信仰の根本とも申すべき霊所である。
御祭神高倉下命は、建国の功臣、熊野三党(宇井・鈴木・榎本)の祖として知られ、農業・漁業の守護神として御神徳が高い。
     
   
天磐盾(あめのいわたて)
神武天皇紀(日本書紀)には戊午年(紀元前三年)六月に狭野(佐野)を越えて「熊野神邑に到り、旦天磐盾に登りて」と記しています。紀元二千六百五十年(平成二年)を奉祝して神武天皇聖蹟である熊野神邑(新宮の古称)の天磐盾(神倉山)の顕彰碑を神倉神社奉賛会が奉献し、文字は鈴木江邨氏が謹書されています。 平成二年二月十一日 建国記念の日
     
   
熊野三山 権現山
市内西方にそびえる権現山(神倉山)は、神が降臨する神体山として崇められてきました。主峰は千穂ヶ峰(253m)で「鎮護ヶ峰」とも記されたように神仏が鎮まり守護してくれる山です。古くから熊野速玉大社の神降臨の神域として重要でした。権現山の南、高さ100m近い断崖絶壁には神倉神社があり「天磐盾」とみなされてきました。また、ここには神が鎮座する磐座があり「ゴトビキ岩」と呼ばれています。古来から霊域として、また修験者の行場として栄えてきたことがわかります。
   

  

   

参考資料
  
新宮ユーアイホテル 0735-22-6611
〒647-0045 和歌山県新宮市井の沢3番12号
   
熊野交通   0735-22-5101
奈良交通 0735-22-6335
串本タクシー  0735-62-0695
   
JR乗車券   伊勢市-新宮 2520円
JR特急指定券 多気-新宮 2290円
JR乗車券 新宮-伊勢市 2520円
JR特急指定券 新宮-多気 2290円
奈良交通バス 新宮-日足 910円