子安地蔵

   
県道沿いにある子安地蔵  
   
子安の地蔵  案内板の説明
所在地 紀宝町浅里字松尾
信仰説話としてふさわしく語り継がれているもののなかに子安の地蔵がある。浅里の東南部に「志やのかみ」と言う山深いところがある。ここで新田を開き暮らしをたてていた百姓がいた。倅に嫁をめとって一家平穏に過ごしていた。秋も深まった頃、家族総出で稲刈りに出ていた。臨月の若嫁が独り残って家事をしていたところが急に産気づき、誰もおらず意外の難産の苦しみに耐えかねて峠近くまで這い上がり、まとっていた物に火をつけて自ら身を焼いて果てた。これを聞いた村人達は、ねんごろに埋葬して苦しみながら途絶えた二つの命の成仏を願った。後年、この地に桜児を抱いた女身を浮き彫りにした像を建てて供養した。そして後年、人妻たちが子宝に恵まれるよう、安産のご加護を願って香をあげ祈願する人が訪れるようになった。地蔵像には「天保8年熊谷向某」と刻まれている。これは天保8年に起きたことで明治の初年に熊谷某が建立したと考えられる。年の移りとともに足を運ぶ人もまれになり雑草におおわれていたが、昭和58年近在の有志によって熊野川沿いの県道脇、松風の滝尻に安置された。これが子安の地蔵尊として再び香を手向ける人が見られるようになった。