乙基(おもと)の渡し場跡あたりの熊野川

   
乙基(おもと)の渡し場跡 案内板の説明から
所在地  紀宝町北檜杖字尾友
説明  新宮から本宮への通行は、平安時代の上皇の熊野参詣を含め、熊野川の船が多く利用されている。しかし、陸路も重要な幹線道であったが、和歌山県側には道がなく、三重県側の熊野川沿いの道が利用されていた。この道は古くは定かでなく、明治以降には紀和町小船まで延長されるが、近世は紀和町和気までであった。「乙基の渡し」は、この幹線陸路と新宮を結ぶ「渡し」であるが、中世末までの状況は定かでない。江戸時代では、北檜杖の荘司家が二人の渡し守を雇い運営しているが、渡し賃・六文のうち五文は寺社の取り分である。(他の渡し、新宮・本宮間舟行でも一部を徴収している。)但し渡船を十年毎に新造する時は寺社から祝儀がでるが、内容は時代で変わり、米一俵づつとか壱貫文があり、古船なら五百文という記録もある。また、明治三年と四年の長井村(熊野川町)の記録に「尾友渡し用として米五升七合」とあるので、近隣の村々からも何かが出ていたのだろう。明治政府への移行が進むなかで運営方法も変わっているが、大正九年プロペラ船就航で遠距離客がなくなり、北檜杖鮒田間の道路改修で使命を終え昭和三十五年ごろに廃止されている。