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JR湯浅駅---久米崎王子跡---津兼王子社---河瀬王子跡---東の馬留王子跡---大峠---小峠---
沓掛王子跡---西の馬留王子跡---内ノ畑王子跡---高家王子跡---善童子王子跡---愛徳山王子跡
---海士王子跡---JR御坊駅
2008年3月8日 9日 晴れ
   
2月は雪、みぞれの中を紀伊路を歩いたが、3月に入って今度こそは気分よく歩けるだろうと期待をしながら、JR湯浅からJR御坊駅までを計画した。久米崎、津兼、河瀬、東の馬留、沓掛、西の馬留、、内ノ畑、高家、善童子、愛徳山、海士各王子跡を訪ねながら歩いた。井関王子跡は案内板にはその場所が記されていたが不明、津兼王子跡は金網越しとのこと、前を通ったがよくわからなかった。
前日、12時29分に近鉄宇治山田駅を出発。鶴橋14時13分着、。大阪環状線に乗り換えて、JR天王寺経由で、紀伊路快速で和歌山に15時42分に着いた。日も長くなってきたし、思っていたより早く着いたので、和歌山城に出かけた。バスで行ったが、駅前の広い「けやき通り」を真直ぐ行くと、左側にある。さすが御三家の一つだけあり、町の中にありながら、広い敷地でゆっくりできる憩いの場所だった。広く長い石の階段を上り詰めたところに本丸があり、天守閣に登ると和歌山の街が一望でき素晴らしかった(入場料350円)。その日は駅前のホテルグランヴィア和歌山に宿泊。夜はホテルで和食を食べてゆっくりした。
和歌山城はもともと豊臣秀長が兄秀吉の命をうけ、天正13年(1585)、築城にとりかかった。その後家臣桑山重晴が初代城主として3万石を領し、築城を引き継いだ。関が原の戦いの後は浅野長政が入城し(1600)、37万6千石を領して、その後の基礎となる築城工事を次々と行った。元和5年(1619)、浅野氏は安芸国広島へ移封され、徳川家康の第十子徳川頼宣が55万5千石を領して入城した。以後和歌山城は、御三家紀伊徳川家の居城となり、江戸幕府の西国支配の拠点となった。城の大規模な整備工事や城下町の拡張整備が実施され、和歌山の繁栄の基礎となった。紀伊徳川家からは八代将軍吉宗、九代将軍家重、十代将軍家治、十一代将軍家斉、十二代将軍家慶、十四代将軍家茂が出ている。天守閣は第二次世界大戦で昭和20年(1945)、戦火を蒙り消失したが、昭和33年(1958)鉄筋コンクリート造りの天守が復元された。
翌24日は7時20分和歌山発の普通列車で湯浅まで行った(写真)(8:11)。JRのガードをくぐり、南に向かった。湯浅氏の菩提寺で、紀伊国屋文左衛門生誕の碑がある(写真)勝楽寺を訪れ(8:28)、一度国道42号線に出た。国道脇の久米崎王子跡を訪れ(8:34)、新広橋手前で左折して旧道に入った。殿集落を抜け、しばらく広川の左岸を歩いた。新柳瀬橋を渡って今度は川の右岸を歩いた。川にぶつかったところに熊野古道の案内板があり(9:11)、これによると井関王子跡が対岸にあるようになっていたので(写真)、国道42号線の殿井橋を渡って、右折し、古道を示す集落内を少し歩いたが、王子跡は不明だった。又国道までもどり、ガード下をくぐって、阪和自動車道の広川ICあたりにある津兼王子跡を目指した。途中までは標識どおりに来て、金網に津兼王子跡という粗末な看板があったが、「いくら何でもまさかこんな所ではあるまい。もうじきあるだろう」と良く見ず通り過ごしてしまった。どこまでいっても王子跡がないのであきらめて国道42号線に出た。あとでもう一度ガイドブックを見ると「左の金網越しに津兼王子跡の説明板がある」と書いてあるので、きっと見過ごした金網の向こうに王子跡を示す説明板があったのだろう。もう少しわかりやすい標識があればと残念だった。ここで大分時間をロスしてしまったが、気分転換にと国道沿いに見えたコンビニに寄ってさらに時間をロス。国道を進み、左折して旧道に入って井関の集落を通った。このあたりにはかつて旅籠がならんでいたらしい(9:55)。集落のはずれに津兼王子と井関王子を合祀する丹賀大権現社があり(写真)(10:01)、この少し向こうの河瀬橋を渡り 右に進むと河瀬王子跡があった(10:05)。このあたりにも旅籠があったらしい。畑のなかの道を進み、やがて険路といわれた鹿ヶ瀬峠へと古道は続いて行った。東の馬留王子跡が右にあり、その向かいの石の道標に、「右 くまの道」と記されており、ここを右手にとると、すぐ立場跡の札が立っていた。ここから険しい道になるので、籠を降りて馬にかえたところらしい。猪よけの柵を開け、つづら折れの坂道を登り進んだ。途中桜、梅の咲く古道をはあはあ息を切らせながら歩くこと40分余、鹿ヶ瀬峠まで後152mの標識のところの左手に痔や人探しに霊験があると信仰が厚い痔の地蔵に着いた(11:14)。さらにこの先を右手の山の中に入っていくと屍が経を読んだ話が伝わる法華の壇があった(11:17)。もとの古道にもどってすぐ先が大峠で、昔は茶屋があった広い平坦地に出た(11:22)。見晴らしはあまりよくないが、ベンチもあり広々としていた。ここで昼食休憩をして日高町の方に下った(11:41)。小峠を過ぎると(11:52)(写真)しばらく石畳の下り道が続いた。石畳は503mあり、紀伊路では珍しく長いそうだが、他の熊野古道と比較すると石も小さく保存も良くない。石がほとんど泥や枯木で埋まっているところもあった。この石畳を下ったところに公園があり、ベンチなどがあり、憩いの場になっていた(12:10)。この下の原谷の集落は黒竹の産地とのことで、道沿いに竹林が見える。右に題目板碑を過ぎ(写真)(12:19)、金魚茶屋横を通って(12:35)沓掛王子跡に着いた(12:49)。横には弁財天と書いた鳥居があった。続いて爪かき地蔵(写真)(13:02)、原谷皇太神社(写真)(13:15)、後鳥羽上皇が休憩したとされる四ツ石聖蹟地を過ぎて(写真)(13:15)西の馬留王子跡に着いた(13:23)。道路の塀に埋まった一里塚跡(写真)(13:30)さらになめら橋で西川を渡り、今熊野神社に来た(写真)(13:44)。鳥居から見ると中に延々と急階段が続いていた。時間もないので、下から拝んで前を通り過ぎるとすぐに内の畑王子跡があった(13:45)。西川に沿って内の畑の集落を過ぎ、王子橋手前で右折して、高家王子跡がある内原王子神社に着いた(14:14)。樹木の中に佇む静かな神社だった。橋を渡り、旧国道を横切って、荊木の一里塚(写真)(14:54)、地蔵坐像を過ぎて(写真)(15:02)小社のある善童子王子跡に着いた(15:09)。富安橋を渡り、集落を過ぎて右に花壇のある道標のところを入って、民家の横を過ぎ、竹林の中をいくと小さな空き地に出て、その奥に愛徳山王子跡があった(15:30)。途中の竹林の雰囲気が良くて、その向こうにある王子跡が何だか秘密の場所のような感じがしてとてもよかった。竹林をもとにもどり、吉田八幡神社前を過ぎて(写真)(15:40)、八幡橋を渡って安珍清姫の話で有名な道成寺に向かった。ここを見学して(15:47)下の茶店で釣鐘饅頭を食べ、続いて清姫蛇塚に寄って(写真)(16:02)、又きた道を八幡橋までもどった。ここからJR,川沿いに進んで海士王子跡に来た(16:12)。このあとは重力踏切でJRを渡り、JR御坊駅に到着(写真)(16:28)。思ったより早く着いて16時35分くろしお28号に乗ることができた。このあと天王寺に18時1分着。急ぎに急いで鶴橋18時11分発の近鉄に飛び乗り、無事伊勢に着いた。
先回までとは違って春の陽気のような紀伊路24km余を楽しく歩けてよかった。

 

  

案内板の説明
      
和歌山城
天守閣
和歌山城天守閣は大天守、小天守、乾櫓、二の門櫓、楠門を多聞によって連結させた連立式天守閣である。各層の屋根には唐破風、千鳥破風を交互に配し、上層階には物見のため高欄をめぐらし、大天守の隅には石落としを設けるなど、江戸初期頃の様式を残している。とくに、和歌山城天守閣の特徴は、ひし形の敷地に左右され乾櫓(北西)と大天守(南東)が張り出し、城下の北東と南西から姿に雄大さを増すように工夫されている。現在の天守閣は、昭和20年7月に戦災で焼失した天守閣(国宝)を、昭和33年10月に鉄筋コンクリート造で復元したものである。
再建年月日 昭和33年10月1日
天守台面積 2640平方メートル
大天守閣高 23、42メートル (海抜72、32メートル)
       
久米崎王子跡
この王子の名は、藤原定家の日記の建仁元年(1201)10月10日の記事にみえますが、この頃の参詣道は王子社から南西よりに離れていたのではないかと思われるため、定家は路頭の樹に向かって遥拝しただけです。その後、承元4年(1210)4月25日に藤原頼資は、この王子社に参拝しています。承久3年(1221)に承久の乱が起こって以降、上皇や女院の熊野御幸は、ほとんど行われなくなり、王子社の多くは荒廃しました。久米崎王子も例外ではなく、15年後の嘉禎2年(1236)には、跡地もなくなっており、鎌倉幕府は、この地の豪族である湯浅氏に、社殿の修復を命じています。しかし、その後も荒廃したらしく、江戸時代初頭、紀伊藩主徳川頼宣は小社を再興しています。その後、久米崎王子神社として祀られてきましたが、明治40年に顕国神社に合祀され、跡地だけとなりました。
   
   
紀伊国屋文左衛門之碑
この碑は、江戸元禄期、材木商人としての才略と紀州蜜柑の冒険的輸送によって、一代の豪商となった紀伊国屋文左衛門の紀州人としての雄渾なる商魂と、江戸における商人及び文化人としての事績を顕彰するため、地元を中心に顕彰会が結成され、その生誕地と推定される、湯浅町別所に、昭和34年10月に建設されたものである。

湯浅町教育委員会

   
熊野古道のご案内
近世以降、熊野詣での本街道は、ここで川を渡り、井関に入った。井関王子は川を渡って数十メートルの左側台地上にあったが、今はその跡形もない。中世までは湯浅から久米崎王子を経て広川を渡ることなく井関に入り、津兼王子に至った。津兼王子は井関王子の東方200メートルにあり、その跡地には今日まで小さな祠があり、その所在ははっきりしていた。平成に入り、高速道路工事のためインターチェンジ内となり、所在地を示す標識と共に祠を祀っている。中世までの熊野道(御幸道)と近世の熊野道は井関に入って約400メートル、国道と交差するたあたりで合流したものと思われる。

平成4年4月               

  広川町教育委員会 広川町観光協会

        
河瀬王子跡
藤原定家は『明月記』によると、建仁元年(1201)10月10日、井関王子についで「ツノセ王子」に参拝しています。また、藤原頼資の日記では、承元4年(1210)4月26日、白原王子についで「角瀬川」王子に参拝しています。江戸時代の『熊野道中記』などでも、「津の瀬王子」と書いています。このように、古い文献では「角瀬」あるいは「津の瀬」という王子社名ですが、江戸時代の村名が河瀬であったことから、「ごのせ王子」と呼ばれるようになったと考えられます。『紀伊続風土記』では、「河瀬王子社」とし、明治時代には河瀬王子神社となりましたが、明治41年に津木八幡神社に合祀され、跡地を留めるだけとなりました。しかし、現在も巨石が横たわっており、王子社の古態を伝えているように思われます。また、この王子跡から鹿ヶ瀬峠に向かう集落には、かつて旅籠や茶屋を営んでいた宿場の雰囲気が感じられます。
  
馬留王子跡
この王子社社を過ぎて南にしばらく行くと山道となり、熊野参詣道の難所、鹿ヶ瀬峠があります。熊野御幸が盛んなころ、上皇や女院、貴族たちは、この峠を越えて熊野に参詣しました。しかし、御幸時代の王子社を克明に記録した藤原定家や藤原頼資の日記には、馬留王子の記載がなく、それよりも新しい王子社と考えられます。江戸時代に書かれた若山(和歌山市)から熊野までの道案内書、『熊野道中記』には、津の瀬王子の次に、沓掛王子、次に鹿瀬山が載せられており、この王子は沓掛王子と呼ばれていたことが知られます。ところが、『紀伊続風土記』では、この王子を沓掛王子と呼ぶのは誤りだとして、馬留王子社と書いています。以降、この王子社は馬留王子社といわれ、明治時代には、馬留王子社となりましたが、神社合祀で、津木八幡神社に合祀されました。

  

大峠 鹿ヶ瀬越えの熊野古道

広川町における熊野古道は、湯浅町より広川に沿って民家やみかん畑の間を進み、井関・河瀬地区に入り鹿ヶ瀬峠を越え日高町に至ります。道沿いには、道中の安全を祈願した王子社跡が数ヵ所あるが、現在は河瀬王子のみその跡を留めています。また、井関・河瀬地区は宿場としての要衝の地であったといわれ、今もその当時の屋号で呼称される民家も数多くあります。鹿ヶ瀬峠は熊野路の難所の一つであり、大峠(この地)は当時、茶屋・旅籠があり賑わいをを見せていました。周辺には養源寺の草創と伝えられる法華壇や南北朝の争いを伝える鹿ヶ瀬城跡もあります。
    
日高町指定文化財 熊野古道「石畳道」

昭和48年6月9日指定

熊野九十九王子社を辿りながら、熊野三山に参詣するために利用された古道のうち、現存する最長の石畳である。全長503メートルにわたって石が敷きつめられている。ここは鹿ヶ瀬峠を越える一番の近道で、参詣古道での難所の一つである、旅人の苦難がしのばれる。

日高町教育委員会

  
日高町文化財 題目板碑
前の梅林は、法華堂跡(八代将軍徳川吉宗やその生母浄円院が帰依した広川町養源寺の源流とも云われている)で、この跡地にあった板碑をここに移したものである。右より一号碑に永享□□、二号碑に嘉吉2年(1442年)、三号碑に永享八年(1436年)、四号碑に寛正2年(1461年)の年号が入っている。いずれも室町時代のもので、郡内で最も古い板碑の一つとされている。

日高町教育委員会

   
沓掛王子跡
藤原定家は、建仁元年(1201)10月10日、「ツノセ王子」に参拝したのち、「シシノセ」(鹿瀬)ノ山をよじ登り、この山を越えて「沓カケ王子」、次いで「内ノハタノ王子」に参拝しています。また、藤原頼資は承元4年(1210)4月26日に、角瀬王子から鹿背山に入り、山中・内匠王子に参拝しています。このことから、熊野御幸の盛時には、「沓カケ王子」とも、「山中王子」ともいわれていたことがわかります。沓掛王子と呼ばれたのは、険阻な鹿瀬峠を越え、人々は、いたんだ藁沓をはきかえたり、牛馬にも沓をはきかえさせたりことによると思われます。この王子社は、古くは、「原谷字新出王子谷」にありましたが、のちに衰退したようです。江戸時代には、ここ披喜の地に「鍵掛王子」といわれる王子社が、弁財天社と共に建っており、この王子社を『紀伊続風土記』では沓掛王子に比定しています。鍵掛王子社は、明治時代に鍵掛王子神社になりましたが、明治10年に原谷皇太神社に合祀されました。
沓掛王子跡(町・史跡 昭和18年指定)

史跡 沓掛王子跡

昭和48年6月9日指定

熊野九十九王子社の一つである。建仁二年(1201)の「御幸記」にでている沓掛王子社は王子谷にあったが、後世この地に移された。現在、弁財天社が祀られている。

日高町教育委員会

  

爪かき地蔵さん

弘法大師がこの地に巡錫したとき、土地の人の無事息災を祈願して岩に爪で地蔵尊を刻んだと伝えられている。現在、地蔵尊のお姿は見られないが、水をかけると浮かび出てくるから水かけ地蔵ともいう。信仰心のない人はいくら水をかけても地蔵尊のお姿を拝むことが出来ない。また東隣、宅地内に弘法井戸がある。

   日高町教育委員会

  
四ッ石聖蹟地
建仁二年(1201年)後鳥羽上皇に随行した藤原定家の「御幸記」によると、この地で小憩した旨記されている。後鳥羽上皇は大変熊野に対する信仰が厚く在生中29回も熊野参詣をしている。

日高町教育委員会

   
史跡 馬留王子跡

昭和48年6月9日指定

熊野九十九王子社の一つである。場所はこの上の畑中(下岡362番地)にあった。参詣をおえて帰路についた貴顕の行列は険しい鹿ヶ瀬峠を越すため、この地で馬を留めたという。沓掛王子社と内ノ畑王子社の間にあるので間王子社ともいう。

日高町教育委員会

   
馬留王子跡
天仁2年(1109)10月18日、熊野参詣途中の藤原定家は、険阻な鹿瀬山を越えたのち、馬留の仮屋に泊まっています。ここ馬留、この地で馬に飼い葉を与えたり、休息させるための施設だったのでしょう。ところが、十三世紀初頭の熊野御幸に随行した藤原定家や、藤原頼資の日記などに、この王子は記載されておらず、当時ここに王子があった形跡はありません。王子の名が見られるのは、江戸時代になってからです。『熊野道中記』に「馬留王子」とあって、「はざま(間)王子」ともいうと、書かれています。『紀州続風土記』によると、この王子社の境内は周囲が六十間あったそうです。馬留王子跡は鹿瀬山の北と南の二カ所ありますが、共に熊野御幸時代に見られない王子で、それ以降に王子社が建立されたことを示しています。この王子社は明治時代に馬留王子神社となりましたが、原谷皇太神社に合祀されました。
馬留王子跡(町・史跡 昭和48年指定)

   

内ノ畑王子跡
建仁元年(1201)10月10日、鹿瀬山を越えた藤原定家たちは、木の枝を伐って槌を造り、榊の枝に付けて「内ノハタノ王子」に持ち寄り、そこに結び付けたのです。建保5年(1217)、後鳥羽上皇と修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資たちも、10月5日に、同じように槌を造り、王子前で「徳あり、徳あり」と声高に言い、弱く貧しい人たちにそれを与えています。祀られている「ツチ金剛童子」にちなんで槌を造り、現世の利益を願ったのでしょう。こうした風習から、この王子社は「槌の王子」ともいわれ、応永34年(1427)9月24日、足利義満の側室 北野殿の先達をつとめた僧実意たちも、風習に従って同様のことを行っています。江戸時代には、隣接地のこの地に移転して、「槌王子社」として祀られ、明治時代に槌王子神社となりましたが、神社合祀で、今熊野神社に合祀され、その後、内原王子神社に合祀されました。
内ノ畑王子跡(町・史跡 昭和48年指定)

   

史跡 内ノ畑王子跡

昭和48年6月9日指定

熊野九十九王子社跡の一つであり、建仁元年(1201)後鳥羽上皇の「熊野御幸記」に、「此所に於いて上下、木の枝を伐り、分に随って槌を造り、榊の枝に付けて、内ノハタノ王子ツチ金剛童子と云々に持参して、各これを結び付くと云々」と記載されている。

日高町教育委員会

  
高家王子   
天仁2年(1109)に熊野参詣をした藤原忠は、10月19日に大家王子社に参拝しています。それからおよそ百年後の、承元4年(1210)、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資も、4月26日に高家王子社に参拝しています。この王子は、江戸時代には若一王子とも称され、萩原村東光寺の地にあったことから、東光寺王子ともいわれています。境内には「長床」という僧の修行場、ないし宿泊施設が設けられており、法華寺という別当寺があったようですが、東光寺との関係は明らかではありません。明治時代に王子神社と改称さえました。本殿は、明治21年に暴風雨で倒壊したため、2年後に再建されています。神社名は、大蔵省管財局の指示で、村の名称を使用して、昭和28年に内原王子神社となりました。なお、旧社地は現在の地よりも北にあったと推定されていますが、詳細は不明です。

高家王子跡(町・史跡 昭和48年指定)

史跡 高家王子跡

    昭和33年4月1日指定

この王子跡は熊野九十九王子の一である。記録によると中右記の天仁2年10月の条に「大家王子」とありまた「源平盛衰記」には「高家王子」と記され、社歴も古く、社格を誇っていたと推定できる。熊野信仰を知るうえで貴重な史跡である。

                     昭和46年3月31日

和歌山県教育委員会
日高町教育委員会
内原王子神社
      
恋伝説熊野古道 熊野路
御坊市内を走る熊野古道の大部分は、現在県市道として使われており、いにしえの熊野詣の旅人が行きかった道筋をたどるのは難しいが、今でも所々に古い面影を残しています。善童子王子跡から海士王子跡にかけては、のどかな田園風景で、宮子姫ゆかりの八幡山公園や道成寺があり、岩内王子跡付近には、有馬皇子が葬られたといわれる岩内一号墳があります。別名「美人王子」ともいわれる塩屋王子神社(塩屋王子跡)は、祈願すればかわいい子を授かるといわれ、女性の参拝が盛んです。塩屋王子跡から尾ノ崎を越えて、上野王子跡に至る道中には、八十八ヵ所の石仏巡りや「安珍・清姫物語」にゆかりのある清姫草履塚が見られます。
  
史跡 善童子王子跡
富安壮の産土神で、田藤次王子ともいう。「中右記」に大般経六百巻を蔵すると記され大社と伝える。秀吉の紀州攻め後衰徴し、明治末年湯川神社に合祀された。

昭和45年5月12日  御坊市教育委員会

史跡 愛徳山王子跡
本王子は、旧川上村阿田木神社より勧請されたと伝え、御幸記に次又愛徳山王子と初めて名が見える。また藤原定家の明月記に盛範が当社を修造した功によって賞せられた事が記され、鎌倉時代かなり重要な社であったようである。明治41年吉田八幡神社に合祀された。

昭和45年5年12日  御坊市教育委員会

  
謡曲と道成寺
今昔物語や道成寺絵巻の絵詩などで有名な安珍清姫物語は、能楽や歌舞伎などの名作劇として、今後も永く伝承される重要文化財で、能楽師や歌舞伎役者は一度はここを訪れます。能「道成寺」の乱拍子は門前の石段六十二段を登る姿を表しています。謡曲「道成寺」は特別伝授の謡曲愛好家の憧れの難曲で、道成寺伝説の遺跡は、謡曲の史跡でもあります。清姫の執念で焼け落ちた道成寺初代の鐘は数百年後に再興されたが、再び清姫の怨霊に落とされ、戦乱の世を経て京都妙満寺の寺宝となったと伝えられます。いま、この鐘巻の跡に立って、再興鐘楼とともに道成寺伝説に思いを馳せ、初代の鐘の行方をあれこれと類推することでしょう。

謡曲史跡保存会

   
海士王子跡
熊野九十九王子社跡の一つでくわまクハマ・クリマ・などとよばれ小笠原宿所を控えた要所で御幸記 建仁元年以後由緒ある王子社であった。

昭和45年5月12日指定  御坊市教育委員会

   

参考資料
  
近畿日本鉄道 http://www.kintetsu.co.jp/
JR西日本   http://www.westjr.co.jp/
   
   
近鉄乗車券  宇治山田-鶴橋 1750円
近鉄特急券 宇治山田-鶴橋 1280円
JR乗車券 鶴橋-湯浅 1890円
JR乗車券 御坊-鶴橋 1890円
JR特急券 御坊-天王寺 1870円
   
ホテルグランヴィア和歌山
〒640-8342 和歌山市友田町5丁目18番地
TEL:073-425-3333    FAX:073-422-1871
http://www.granvia-wakayama.co.jp/
ネット予約 シングル1泊 7700円