久米崎王子跡  2008.3
   
この王子の名は、藤原定家の日記の建仁元年(1201)10月10日の記事にみえますが、この頃の参詣道は王子社から南西よりに離れていたのではないかと思われるため、定家は路頭の樹に向かって遥拝しただけです。その後、承元4年(1210)4月25日に藤原頼資は、この王子社に参拝しています。承久3年(1221)に承久の乱が起こって以降、上皇や女院の熊野御幸は、ほとんど行われなくなり、王子社の多くは荒廃しました。久米崎王子も例外ではなく、15年後の嘉禎2年(1236)には、跡地もなくなっており、鎌倉幕府は、この地の豪族である湯浅氏に、社殿の修復を命じています。しかし、その後も荒廃したらしく、江戸時代初頭、紀伊藩主徳川頼宣は小社を再興しています。その後、久米崎王子神社として祀られてきましたが、明治40年に顕国神社に合祀され、跡地だけとなりました。

   案内板説明から