沓掛王子跡  2008.3
   
藤原定家は、建仁元年(1201)10月10日、「ツノセ王子」に参拝したのち、「シシノセ」(鹿瀬)ノ山をよじ登り、この山を越えて「沓カケ王子」、次いで「内ノハタノ王子」に参拝しています。また、藤原頼資は承元4年(1210)4月26日に、角瀬王子から鹿背山に入り、山中・内匠王子に参拝しています。このことから、熊野御幸の盛時には、「沓カケ王子」とも、「山中王子」ともいわれていたことがわかります。沓掛王子と呼ばれたのは、険阻な鹿瀬峠を越え、人々は、いたんだ藁沓をはきかえたり、牛馬にも沓をはきかえさせたりことによると思われます。この王子社は、古くは、「原谷字新出王子谷」にありましたが、のちに衰退したようです。江戸時代には、ここ披喜の地に「鍵掛王子」といわれる王子社が、弁財天社と共に建っており、この王子社を『紀伊続風土記』では沓掛王子に比定しています。鍵掛王子社は、明治時代に鍵掛王子神社になりましたが、明治10年に原谷皇太神社に合祀されました。

   案内板説明より