西の馬留王子跡  2008.3
   
天仁2年(1109)10月18日、熊野参詣途中の藤原定家は、険阻な鹿瀬山を越えたのち、馬留の仮屋に泊まっています。ここ馬留、この地で馬に飼い葉を与えたり、休息させるための施設だったのでしょう。ところが、十三世紀初頭の熊野御幸に随行した藤原定家や、藤原頼資の日記などに、この王子は記載されておらず、当時ここに王子があった形跡はありません。王子の名が見られるのは、江戸時代になってからです。『熊野道中記』に「馬留王子」とあって、「はざま(間)王子」ともいうと、書かれています。『紀州続風土記』によると、この王子社の境内は周囲が六十間あったそうです。馬留王子跡は鹿瀬山の北と南の二カ所ありますが、共に熊野御幸時代に見られない王子で、それ以降に王子社が建立されたことを示しています。この王子社は明治時代に馬留王子神社となりましたが、原谷皇太神社に合祀されました。

   案内板説明より